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それは罪ではなく、単なる誤りなのだということ
罪と見るのか?それとも誤りと見るのか?
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者にとって、日々の実践として求められているのが、
それを罪と見るのか?
それとも、
それを誤りと見るのか?
の選択だと言うことができます。
誤りを罪と混同しないことが極めて重要であり、救済を可能にするのはこの区別である。(T-19.Ⅱ.1:1)
それを罪と見るならば、私たちは個人としての肉体の自分に縛り付けられてしまうことになります。
そうなると、その自分はもはや処罰を免れることはできません。
そして、それによって罪悪感、恐れが実在することになります。
一方、
それを罪と見ずに、誤りと見るなら、それは訂正することができます。
そのとき、私たちは、自分とは誰なのか?という自分の本性(真のアイデンティティー)を思い出すための機会とすることができます。
誤りは訂正可能であり、間違いは正すことができる。しかし罪は、仮にそれが存在できるとすれば、取り消し不可能なものである。(T-19.Ⅱ.1:2-3)
私たちは、毎瞬、罪か?誤りか?というその選択肢にいるということです。
そして言えるのは、私たちはいつのときも「罪」と見ています。
それによって、この世界がまるで牢獄のようになってしまっています。
いつか訪れる「死」という処罰を免れることはもはやできません。
でも一方、誤りと見るならば、この世界は教室です。
そして、すべてが赦しのレッスンの機会となります。
誤りは訂正を要求し、罪は処罰を要求する。そして、処罰がすなわち訂正であるという信念は、明らかに狂っている。(T-19.Ⅱ.1:6)
私たちがそれを誤りと見るとき、
私たちの何が間違っているのでしょう?
その誤りとは何なのでしょう?
というなら、
その答えは、ただたんに自己認識(アイデンティティー)を見誤っているだけなのだということです。
自分を何だと知覚しているか?
その正しい自己認識ができていない、それが問題なのだということです。
自分は人間(肉体)だと信じていることそれ自体が、すでに私たちは罪を見続けることを選択しているのです。
それがいけないということではありません。
もし罪を外側に見たらなら、そして、もし兄弟の中に罪を見たなら、
それは、
自分とは何者か?
という自己認識(アイデンティティー)についてただ忘れているだけであって、それは訂正することができるのだと思い出していくことが大事なのだということです。
そして、そのための実践的な手段が「赦し」なのだということを覚えておきましょう。