私たちに自由意思はあるのか?
self(個人の自分)か?Self(心の自分)か?
私たちに自由意思はあるのか?
ということについて述べるとき、まず、私たちが知っておかなければならないのは、
自分を誰だと思っているか?によってそれに対する答えはちがってくる、
ということです。
通常、私たちは、「自分はこの肉体である、自分は人間である」と信じています。
真理(非二元)から見るならば、その自分は、個人の自分(個我/self)であり、いわゆる、この世界の夢の中の登場人物(キャラクター)なわけです。
その登場人物(キャラクター)はシナリオ通りに動かされているだけで、もちろん、自由意思などあるわけがありません。
すべては起こることがただ起きているだけなのです。
それが真理です。
ようするに、この世界に居ると信じている自分たちは「個人の自分(self)」であり、その自分には自由意思はないということです。
ただし、自由意思について語るとき、それはそこで結論づけられるものではないということです。
とくに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる者であるならば、覚えておかなければならないことがあります。
それは、この世界の夢をまったく別の見方で見ることが、私たちにはできるのだということです。
それをコースでは、
自我と共に見るのか?聖霊と共に見るのか?
という言い方をします。
つまりそれは、
自分を「個人の自分(個我/self)」とだ思っているのか?
それとも、
自分を「心の自分(全体なる自己/Self)」だと自覚しているのか?
ということなわけですが、
その選択肢にかぎっては、私たちには自由意思があるということです。
そして、その実践こそがコース学習者である私たちの訓練であるわけです。
その訓練とはまさに、次のようなものです。
「個人の自分」として、この世界に脅かされ続けるのか?
それとも、
「心の自分」を自覚していくためにこの世界を教室として見ていくのか?
というどちらを選択するのか?の訓練です。
前者を選ぶなら、ますます私たちはこの世界の夢に入り込んでいくだけでなく、その代償として、深刻さ、苦痛、苦しみを経験していくことになります。
一方、
後者を選択していくなら、この世界での経験を平安と共に見ることができるだけでなく、自分とは誰なのか?自分の本性がますます思い出されていくことになります。
何度も申しますが、
コースではそれを、自我か?聖霊か?というふうに言っているわけです。
結論を述べるならば、
「自分は人間である」「自分は肉体である」、つまり、自分は「個人の自分(self)」だと信じているかぎり、そこには自由意思はないということです。
ただし、全体なる自己/心の自分(Self)にとっては、自我か?聖霊か?という選択肢において自由意思はあるということです。
ようするに、この地上に生きる私たちにとっては、自我か?聖霊か?というその選択肢においてのみ自由意思があるということです。
そして、その選択肢において、聖霊?を選択していくこと、つまり、心の自分(全体なる自己/Self)を自覚していくことが私たちに与えられた唯一の役割(機能)なのだということを忘れないようにしましょう。
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