欠乏のゲーム、孤独のゲームから脱却していくために
「特別な愛の関係」について
この世界に居る私たちは誰もが自分は孤独だと感じています。
というのも、私たちはワンネスである神との一体性(ワンネス)から分離したと信じているからです。
「私は存在している」ということが、まさにそういうことであるわけです。
それによって、私たちは誰もが自分は愛されていないと感じています。
愛がないと感じています。
それゆえに、私たちは愛を求めることに、愛を得ることに明け暮れていると言うことができます。
私たちはその欠乏、孤独を埋めるために、それを満たしてくれるものを探して、他者とつながろうとします。
どれだけ人に愛されたがっていることでしょう。
どれだけ他者からの賛同を得たがっていることでしょう。
でも、どれだけ注目されたなら、その孤独感(分離感/欠乏感)は満たされるのでしょう。
その欠乏が満たされることはけっしてありません。
そうであるにもかかわらず、それでも私たちはそのようにしてでしか、欠乏や孤独を埋めることができないのです。
いっこうに満ち足りることがないどころか、絶望と不平不満だらけです。
他者から愛を得ようとする、奪おうとする、そのゲームはいっこうに終わることがありません。
私たちは満ち足りることがないのは、いったいどういうことなのでしょう?
私たちはその真実を思い出す必要があるといえます。
私たちはその真実を忘れてしまっているからです。
自分は愛を持っていない、愛が足りていない、と信じているからです。
それが、分離の想念(自我の思考体系)を信じていることの代償であるということも忘れてしまっているのです。
それゆえに、自分は誰かから、あるいは何かから、愛を奪う必要がある、と信じてやまないのです。
この世界との関係性はそのようにして成り立っているわけですが、その関係性こそが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で呼ばれているいわゆる「特別な愛の関係」というものです。
自分を満たしてくれるものが外側にあると信じて、その欲求が満ち足りることがないわけです。
それが、この世界で私たちがしていることです。
「特別な愛の関係」がどいういうものであるか?
私たちがコースの学びと実践を通して、それを理解するようになり、そして、認識していくようになるならば、このゲームを終わることをもっと強く望むようになるでしょう。
そして、その学びと実践はもっと妥協のないものになっていくでしょう。
ちなみに、それは、「特別な(愛の)関係」を否定していくということではまったくありません。
私たちコース学習者は、その目的を変えることによってもう一つの別の見方があることを学んでいきます。
その目的を変えて見るようになるとき、「特別な関係」であったもの、そのすべてが「神聖な関係」となっていきます。
すべての関係性を、自分のため、自分の学びのためのものとして見るようになるということです。
それは、コースの学びと実践を通して、正しい心(正気)の見方(思考体系)へとシフトしていくことによって、そうなっていきます。
そのための道がこのコースであるわけです。
終わりなき欠乏のゲーム、そして終わりなき孤独のゲームから脱却していくための方法が示されている道がここにあります。
それは、コースの学びと実践を通して、本来の自分(私たちの本性)とは何者なのか?ということを思い出していくことによって体現されていくことになります。
いわゆる、真の自己(真のアイデンティティー)を自覚していくことによって、それは達成可能なのだということです。
それを「目覚め」「覚醒」「復活」とコースでは呼んでいます。
コースは、そのようなスピリチュアリティ(霊性の道)なのだということをしっかりと理解したところから学んでいくと良いでしょう。