この道を歩まずして、そこに何の意味があるというのでしょう
生きるとは?人生とは?という根本命題の答えを求めて
私にとってのスピリチュアルの旅のはじまりは20代前半の頃のことでした。
なぜ生まれてきたのだろう?
何のために生きているのだろう?
そして、どこへ向かおうとしているのだろう?
いつか死ぬと分かっていながら、なぜ人は生きるのだろう?
なぜ人はそのことに疑問を持たないのだろう?
なぜ幸せじゃないのだろう?
なぜ人生はうまくゆかないのだろう?
人生って何なのだろう?
生きるとは何なのだろう?
そのような人生の本質に関する疑問が自分の内側から理由もなく湧き起こってくるようになったのでした。
生きるとは?人生とは?という根本命題に対する答えをスピリチュアルに求めるようになったのです。
まるで内なる衝動にかられるように、スピリチュアルの探究の旅ははじまったといえます。
真実を知りたいという欲求を抑えることができなかったのです。
それから三十年ほどの年月が経ったことになります。
真実、真理を求めてきたように思います。
さまざまなスピリチュアリティ(霊性の道)を渡り歩いてきました。
それでもその探究欲求が尽きることはありませんでした。
紆余曲折しながら、そして、その探究の旅の果てに行き着いたのが、このコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)だったということです。
ずっと抱き続けていた疑問は、コースを学んでいくことによってクリアになっていったといえましょう。
というのも、もはや、もうそれらの疑問を抱くことがないからです。
まだ探究の旅が終わったわけではありませんが、その探究は外側に向かうものではなく、内なる探究へとシフトしたといえます。
これが今この瞬間(聖なる瞬間)への帰還の旅であることを理解するようになるにつれて、この人生の捉え方も、「時間」というものの概念もまったく変容してしまうと言うことができます。
そのすべてが夢の主人公のストーリーにすぎなかったということが理解されてくるならば、この世界も、時間をも愛するようになってくるものです。
この旅を振り返るならば、
どれだけのまわり道をしてきたことでしょう。
どれだけの時間、お金、人生を費やしてきたことでしょう。
でも、それらを経由してきたからこそ、ここに行き着いたと言うことができます。
コース以外にも、もちろん、ここに至るための霊性の道はあるのだと思います。
ただ、私にとっては、それがコースという霊性の道だったのだといえるでしょう。
この旅はもうどこにも行かないことを知っています。
たとえ、他にもどのような道があったとして、さまざまな旅に出たとしても、すべてのその旅はいずれにせよ必ずここに戻ってくることを知っています。
すでに与えられている道を歩んでいくだけです。
ずっと探し続けてきた道は、すでにあったということです。
道はここにあります。
それが我が家に帰る道だと分かっているなら、この道を歩まないということなどあり得るでしょうか。
この道を歩まずして、そこに何の意味があるというのでしょう。