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自我の巧妙さをみくびってはならない

自己矛盾(葛藤)に気づいていきましょう

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者がコースの形而上学を学んでいくことはもちろん重要不可欠なことであるわけですが、そこで私たちがわきまえておかなければならないことは、形而上学は形而上学にしかすぎない、ということです。

コースの教えをたとえ知的に理解していったとしても、所詮、それは知的理解にしかすぎないということです。

本当の学びとは、実践において学ばれていくものだということです。

それは実践をしていってはじめて理解されるものがあるということであり、実践していかないかぎり理解され得ないものがあるということです。

コースの教えをいくら知的に理解していたとしても、それがコースの学びが進んでいることにはならないということです。

実際に、コースの教えを実践に適用していこうとすならば、実際のところ、コースが教えている通りにはできないということが分かるはずです。

私たちはコースが教えているようにはまったく見てはいないし、考えてはいないということが自覚/認識されるはずです。

それがどういうことを意味するのか?

というと、つまりは、コースが教えていることをまったく信じてはいないということです。

いくらコース形而上学を(知的)には理解していても、です。

コース学習者の私たちが注視しなければならないのは、そういうことのほうなのだということです。

コースを学んでいるとしても、その自分は相変わらず「この世界で幸せになりたい」「もっと人生が上手くいけばいいのに、、」と思っていたりするわけです。

この世界の夢から目覚めていきたいと思いながら、でもこの世界の夢を見続けたいとも思っているわけです。

その自己矛盾(葛藤)に気づいていきましょう!ということです。

この世界は天国の対極だと、つまり、地獄、悪夢の夢だということを学んでいながら、それと同時に、「この世界で自分は幸せになりたい、そしてそうなれる」と信じているわけです。

いかに精神が分裂していることか!

天国(わが家)に帰るための霊性の道を歩んでいながらも、それとは裏腹に、「自分はこの悪夢の世界にまだまだ留まり続けていたい」と密かに思っているのです。

それを狂気と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう!

コースの学びが真に深まっていくならば、そのことをますます自覚/認識するようになります。

そのことを自覚/認識していくことがコース学習者の私たちに求められていることであり、その自分(自我)を咎めずに見ていくことがコース学習者の私たちがしていくことなのだということです。

そう、自分の内側をしっかり直視しているコース学習者であるならば、その自己矛盾(葛藤)を十分に自覚/認識していることでしょう。

その自己矛盾(葛藤)は、実際には、数えきれないほど自覚することができます。

例えば、「この世界は幻想である、実在しない」ということをコースで学んでいるにもかかわらず、私たちはその真実を受け入れる気がないどころか、むしろこの世界で自分を満たしてくれるものがあるはず、自分を幸せにしてくれるものがあるはずだと期待していたりすることなど、そうでです。

また、コース学習での分かりやすいところでいえば

テキスト、ワークブック、教師のマニュアルを何度も読んでいるにもかかわらず、自分(自我)にとって都合の悪いところだけは、まるですっぽりと抜け落ちて忘れてしまうのも、そうです。

あるいは、

「私は目覚めたいのです、神のもとに帰りたいのです」と思いならがコースを学んでいるにもかかわらず、コースを学ぼうとしない、コースを実践しようとしない、、、

挙げたらキリがないです。

そんな「自我の防衛」「自我の抵抗」を認識するたびに、自我の巧妙さに気づかされます。

その巧妙さはまさに見事としか言いようがありません。笑

覚えておかなければならないのは、そのようなことを自覚/認識していくこと、それこそが本当の意味での「学び」なのだということです。

自我について、自我がしていることについて理解していくこと、しかも、それを咎めずに見ていくこと、それが私たちに求められていることなのです。

その実践なしに、自我から、そして自我が作り出した世界から自由になれることはけっしてないということです。

むしろ、自我に気づいていくことなしに、どうやって私たちは自我から脱却していくことができるというのでしょう。

つまり、このコースは、神、天国、光、愛、ワンネスであるわが家に帰りましょう、目覚めていきましょう、といった類いのスピリチュアリティ(霊性の道)とはまったく違うのだということです。

もしコースをそのようなものとして解釈して、コースを学んでいるとしたなら、それはコースを学んでいないのと同じだと言うことができます。

コースはファンタジーなスピリチュアリティ(霊性の道)ではないのです。

自我はいつもコースを学ばない誘惑に誘おうとするわけですが、その自我と闘ってはなりません。

そうするなら、ただ自分自身と闘うことになるだけです。

コースの学びが深まっていけばいくほど、そのことを理解すようになります。

自我に欺かれないようになっていくためにも、私たちは自我について学ばなければならないのです。

そのためにはコースの形而上学を繰り返し学び、そして理解していくことが必須なわけですが、本当の学びとは、その実践を通して学ばれ、そして修得されて、根付いていくのだということを肝に銘じておきましょう。


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