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「非二元」と「純粋非二元」の違いが理解できますか?
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は一元論のスピリチュアリティであるということは言うまでもありません。
いわゆる、コースはノンデュアリティ(非二元)の霊性の道なわけです。
でも、コースの学びと実践を通してこの世界の夢から本気で目覚めていこうと思っているのであるなら、巷の「ノンデュアリティ(非二元)」や「悟り」のスピリチュアリティとは、一線を画する必要があるといえます。
というのも、そこには目的としているものがちがうからです。
巷のノンデュアリティとコースの何がちがうのか?
というなら、
それは、「非二元」と「純粋非二元」のちがいとして見ることができます。
ということで、今回は、非二元と純粋非二元というテーマで、「ノンデュアリティ」や「悟り」のスピリチュアリティとコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)が教えている一元論のスピリチュアリティとの異なる点を見ていこうと思います。
「非二元」と「純粋非二元」について
「ノンデュアリティ」や「悟り」「真理」について探究していくスピリチュアリティを「非二元」とか「一元論」というふに呼んでいます。
「非二元のスピリチュアリティ」も「一元論のスピリチュアリティ」も哲学的な観点のアプローチが異なるだけで、その内容としては同じものとして捉えることができるといえます。
非二元/一元論のスピリチュアリティは、コース(『ア・コース・イン・ミラクルズ』)がこの世に登場するずっと以前の何千年も前から、西洋、東洋を問わず探究されてきたものです。
(それを「古典のノンデュアリティ」と呼びます。)
ただ、現代においては、「ノンデュアリティ」と称されるジャンルのスピリチュアリティが良き意味でも悪しき意味でもかなりカジュアルなスピリチュアリティとして扱われるようになり、その一方で、従来の古典のノンデュアリティの霊性の道とは異なったスピリチュアリティと化して普及していることは否めません。
そう、巷ではノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティが多くのスピリチュアリスト、ノンデュアリストによって本来の古典の教えが歪曲されはじめている傾向があるといえます。
それは世界の多く人々に馴染みのあるものになっている意味では良きことでもある一方、それによって古典の純粋な非二元のスピリチュアリティとはちがったスピリチュアリティになり下がってしまっているというふうに言うことができましょう。
いわゆる、本来、純粋な非二元の教えであったはずのものが、もはや本来の「非二元」ではなくなってきたということです。
ようするに、「純粋非二元」と「非二元」とに霊性の道(スピリチュアリティ)を分けて捉える必要性があるとは、そういうことです。
そして最近では、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)も非二元のスピリチュアリティの中の一つの霊性の道として、次第にその脚光を浴び始めてきているといえましょう。
そう、ここで私たちがしっかりと理解しておかなければならないのは、コースは純粋非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)であり、巷のノンデュアリティとは一線を画するものであるということです。
もっと具体的に言えば、目指しているところが、巷のノンデュアリティとはまったく異なるということです。
一見同じような「非二元」のスピリチュアリティを探究しているとしても、それらは似て非なるものであるということです。
純粋な非二元のスピリチュアリティを探究する者にとっては、その違いを明確にしておくことはとても重要だといえるでしょう。
なぜ、コースは、純粋非二元と呼ばれるのか?
上記でも述べましたように、コースは純粋な非二元のスピリチュアリティなのだということです。
なぜ、コースは、純粋非二元と呼ばれるのか?
まずはじめに、「純粋非二元(ピュア・ノンデュアリティ)」という言葉を使いはじめたのはワプニック博士だといえます。
それは、本来、非二元の教えであるはずのコースの教えが学習者たちの(二元性の思考体系の)勝手な解釈によって、二元性のスピリチュアリティに歪曲されはじめたことに対する警告として使われた言葉であったということです。
そのような歪曲は、これまでの歴史上のさまざまなスピリチュアリティにおいてもあったことですし、コースでもそれが起きているということです。
いわゆる、コースの教えは非二元(一元論)の教えであるにもかかわらず、それが非二元の教えではなく、二元性のスピリチュアリティの教えへと縮小解釈され、曲解されているということです。
それは、1970年代に、『ア・コース・イン・ミラクルズ』という書物が世に出回って間もなくしてそういうことが起きはじめたわけですが、この現代(2022年)となっては、もはやコースの教えが都合のいいように歪曲されていくことに歯止めが利かなくなっているのが現状だといえましょう。
だからこそ、ワプニック博士は、「このコースは純粋な非二元の教え(スピリチュアリティ)なのです」と、私たちに強調していたのだということが分かります。
話を戻すならば、もう一度もうしますが、「純粋非二元(ピュア・ノンデュアリティ」という言葉は、ワプニック博士の言葉を引用したのがはじまりだったということです。
では、純粋非二元と非二元のちがいはいったいどういうものなのでしょう。
純粋非二元と非二元は、何が、どこが、どのようにちがうのでしょう?
そのことについて、考察してみようと思います。
悟りの体験、見性体験、普遍的体験、一瞥体験について
「ノンデュアリティ」という言葉についていえば、2012年の前後あたりから頻繁に耳にするようになったといえます。
このご時世においては、悟りの体験、いわゆる見性体験、一瞥体験、普遍的体験といった体験をする方々がたくさんおられて、そして、そういった方々がノンデュアリティ・ティーチャーとして、あるいはノンデュアリティ・スピーカーとして発信しておられることもあって、ノンデュアリティ(非二元)というものが多くのスピリチュアリストたちに理解される時代になったといえましょう。
そしてさらに、この2020年代においては「風の時代」と呼ばれたりしていて、ノンデュアリティのスピリチュアリティはスピリチュアルなジャンルの中でもその流れの主流になっていく予感さえ感じられます。
その流れにおいて、コースはどのような位置を占めていくのでしょう。
そういうことからしても、「純粋非二元」と「非二元」のちがいについて考察する必要があるかと思います。
まず大きくそのちがいとして言えるのは、ノンデュアリティのスピリチュアリティでいうところの「悟り」「目覚め」「覚醒」といった言葉の定義が、コースでいうところの言葉の定義とはまったく異なるものであるということです。
「悟り」「目覚め」「覚醒」といった言葉の概念が、巷のノンデュアリティのスピリチュアリティとコースではまったくちがうということです。
そのことを理解することは、コースはどのような霊性の道であるか?を理解していくうえで重要かつ不可欠であるといえます。
それというのも、巷のノンデュアリティのスピリチュアリティにおいては、悟りの体験、いわゆる見性体験、普遍的体験、一瞥体験といった体験を「悟り」「目覚め」「覚醒」として定義しており、それがあたかも私たちのゴールであるかのように捉えられているからです。
ただし、コースでは、悟りの体験、いわゆる見性体験、普遍的体験、一瞥体験といった体験を「啓示」というふうに呼んでいて、そういった「啓示」体験を重視などまったくしていないということです。
というのも、コースは「啓示」体験をゴール(目標)とはしていないからです。
たしかにコースの学びのプロセスにおいては、「啓示」や「悟り」のような体験をすることもあります。
ですが、コースの教えからいえば、それはあくまでも学びの通過点であってゴールではない、つまり、それを「目覚め」とは言わないということです。
「啓示」や「悟り」の体験は、私たちがどこへ向かっているのか?その到達地点を教えてくれる道標(標識)のようなものだ、というふうにコースでは述べられています。
ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもあるが、そこに到達するには手段が必要である。(T-1.VII.5:11)
たとえ到達地点(最終地点)を一瞥したとしても、それはただたんに最終地点を垣間見ただけのことであるということです。
つまり、「非二元」「真理」「ワンネス」をたとえ一瞥したとしても、この世界を知覚しているかぎり、コース学習者の私たちがしていく実践は何ら変わらないということです。
一瞥しようがしまいが、私たちは訓練を通して修得していかなければならないものがあるということです。
いわゆる「非二元」を垣間見るのと、「非二元」を熟達(マスター)するのとはまったくちがうのだということです。
「悟り」の体験、「啓示」の体験、そういった体験をしたとしても、それで終わり(ゴール)ではありません。
悟りを体験した後のさらなる道(悟後の修行)があるのだということです。
悟りを完成させていくこと、それが目覚めへの道であり、コース学習者の私たちが目標としているものだということです。
悟りの完成。
それこそが「非二元」や「悟り」を探究する者たちが目指しているものであり、コースはそんな探究者たちのための霊性の道であるということを知っておくと良いでしょう。
ごく稀な純真なノンデュアリスト
上記のことから申しましてもお分かりの通り、今や巷には非二元のスピリチュアリスト(ノンデュアリスト)たちがたくさんおられるだけでなく、これからもっと増えていくようにも思われます。
ただし、ここでわきまえておかなければならないのは、その中でも、本当の意味で純粋なる非二元のスピリチュアリティを歩んでいるスピリチュアリストはごく稀だということです。
(もしかしたら私が知らないだけで、コース以外の純粋な非二元の道を歩み、そしてそこから生きている人はもっとおられるのかもしれませんが、なにせ、そういうノンデュアリストは本当に稀です。)
コースを学んでいる学習者たちですらも、本当にコースの教えを理解して、忠実に純粋なる非二元の道を歩んでいる学習者は稀だといえるでしょう。
一瞥体験について言えば、「悟り」を垣間見ただけと、訓練がなされた「悟り」とでは、まったく大きな違いがあるということです。
この世界を知覚しているかぎり、私たちはこの世界を使って訓練をしていく必要があるのだということを忘れてはなりません。
真の知覚の修得が完全なるものになっていないのならば、真に「目覚めている」とは言わないのだということです。
コースを学んでいるのであるならば、もしくは、これからコースを学ぼうと思っているのであるならば、コースは純粋な非二元の霊性の道であるということを知っておくべきです。
ようするに、コースは、純真なノンデュアリストたちが歩んでいくに値する霊性の道だということを知っておくと良いでしょう。
以上、私なりに「非二元」と「純粋非二元」のスピリチュアリティ(霊性の道)のちがいについて書いてみましたが、そのちがいは本当に分かりにくいものです。
もし「純粋非二元」と「非二元」とのちがいが分からないというのであれば、自分は純粋非二元を学ぶ準備が整っていない、と捉えていいと思います。
逆に、もし「純粋非二元」と「非二元」とのちがいがはっきりと見分けることができるとしたなら、「純粋非二元」の霊性の道を歩む準備が整っているというふうにも捉えられます。
いうなれば、本人がそのことを認識しているしていないに関わらず、その準備が整った者たちがコースを学ぶようになっているといえましょう。
コースを学ぼうと思ったときが、コースを学ぶときだということです。
なぜ、コースが「純粋非二元」のスピリチュアリティと呼ばれるのか?
あなたがコースの教えを真に理解するようになるとき、そのことの意味がもっと明確に分かるようになることでしょう。