コースは従来のスピリチュアルとは一線を画するものである
コースは心理学である
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は純粋な非二元あるいは一元論のスピリチュアリティであるわけですが、そのようなスピリチュアリティは特に東洋に多く見受けることができます。
それらのスピリチュアリティと比べてコースは何がどうちがうのか?というならば、そのもっとも特徴的といえるのが、コースは心理学的な側面から述べられているということが挙げられます。
コースが教えていることの理解が深まっていくとき、コースは霊性の道でありながらも、むしろ、コースは心理学であるということが分かってくるということです。
それはスピリチュアル的な学びからアカデミック的な学びへとシフトしていくことを意味します。
ただし、コースはそういうものであるにもかかわらず、私たちがコースを学んでいくとき、その心理学的な側面がまったく見落とされてしまっていると言わざるを得ません。
つまり、コースはアカデミック(学術的)に学んでいくことのできるスピリチュアリティ(霊性の道)であるにもかかわらず、どちらかというとスピリチュアルのジャンルのものとして、スピリチュアルの延長として学ばれてしまっている傾向があるということです。
それによってどうなるか?というと、コースの学びと実践が曖昧模糊としたふわふわとしたものになってしまうわけです。
いわゆる、その学びと実践は歪曲されたものになってしまうということです。
そうなってしまうならば、コースを何年も学んでいったとしても、コースの学びの階梯を上っていくことはできないどころか、知覚のシフトも、アイデンティティーのシフトもなされることなく、コースの学びの階梯の一番下に留まったままになりかねないということです。
それとは逆に、コースが教えていることを真に理解するようになるならば、コースは従来のスピリチュアルとは一線を画するものであるということが分かってきます。
つまり、コース形而上学(思考体系)をしっかり理解するようになるならば、それはスピリチュアルな教えというものではなく、心理学的な側面のほうこそがコースが教えていることの重要な位置を占めている、ということが理解されてくるということです。
そう、このコースは曖昧さや神秘さが一切ない霊性の道であることが明らかになっていきます。
そうなっていくいくならば、当然、その学びと実践において曖昧さも神秘さも介入しなくなっていきます。
曖昧さも神秘性も介入できなくなるとき、それはスピリチュアルの旅の終焉を意味します。
このコースの学びが深まっていくにつれてどうなるのか?というと、そうなっていくということです。
それゆえに、コースの捉え方がスピリチュアルなジャンルからアカデミック(学術的)なジャンルへとその捉え方が変わっていくといえましょう。
言い換えるなら、もしそのようになっていくこともなく、相変わらずコースをスピリチュアルな教えとして捉えて学び続けているとしたなら、コースが教えていることが理解されていないと言うことができましょう。
そう、このコースが教えていることを真に理解していくようになるならば、このコースはしっかり地に着いたスピリチュアリティ(霊性の道)であるということを知るようになるでしょう。
参考記事:『奇跡講座』の心理学的側面と「時間の短縮」