じつは、私たちは「無」を見て一喜一憂しているだけで、それを人生と呼んでいるだけです
いまここにただ在り続けるもの
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、この世界は実在しないと教えてくれています。
それは、この世界には意味や価値あるものなど一つもないということであり、何一つ信じるに値しないということを意味します。
それはどういうことなのかというと、つまりは、自分が目にするもの、聞くもの、触れるもの、知覚するもの、経験していることそのすべてが嘘なのだということです。
実在するものは、恒久的であり、不変です。
それと比べて、すべてが移ろい変わりゆくものであるなら、それらは実在しないということです。
それは、自分の考え(思考/想念)についても同様に然りです。
自分が考えていることも、そしてその考えによって投影されたこの世界も、そのすべてが実在しないのです。
それらすべては「無」である、ということです。
それが、純粋なる非二元の教えというものです。
そうであるにもかかわらず、私たちは何をしているのか?
というなら、じつのところ、私たちは「無」に対して一喜一憂しているだけで、それを人生と呼んでいるということです。
妄想のイメージを投影して知覚を作り出して、それを信じているだけなのです。
一方、その知覚を看過するならば、同時にそこには、人生という虚偽の映像(「無」)とはまったく関係なく、いつでもどこにでも実存なる愛が臨在しているのです。
「無」を看過したところに、それはただ在り続けています。
それを仏教では、「空」と呼んでいます。
この世界には何一つ実存(真実)なるものはありませんが、それでも、この世界(時空)には属さないそれを超えたところにはいつも臨在するものがただ在り続けているのだということです。
そう、私たちは毎瞬毎瞬、
無か?実存か?
そのどちらかを選択し続けているといえましょう。
そしてもちろん、毎瞬舞瞬、「無(虚偽の映像)」のほうを好んで選び続けているということです。
それは、私たちの無自覚なレベルで行われています。
私たちがコースの学びと実践を通して求められているものとは、そのことを自覚/認識していくことだと言うことができます。
その学びと実践を重ねていくならば、
自分が何者なのか?自分は何をしているのか?
私たちはその真実に対してより自覚的になっていきます。
つまりは、真の知覚が思い出されていくと共に、真のアイデンティティーが、次第に思い出されていくということです。
真の知覚の修得、そして、真のアイデンティティーへのシフト。
私たちがコースの学びと実践を通して目指しているものとは、そういうものだということを知っておきましょう。