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コースの「赦し」とはいったいどういうもの?

この世界の被害者ではない ~「二重の願望」について

外側の世界で起こること、あるいは、人生で起こる出来事に一喜一憂しているとするならば、それはこの世界の被害者になっているということです。


私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-p1.31)

奇跡講座/中央アート出版社


つまり、この世界にいる私たちみんなが、すっかりこの世界の被害者になっていまっていると言うことができます。

そして、その被害者の特徴は?というと、「私はこの世界に存在している」と信じていながらも、でも自分がこの世界で体験していることのすべては「私のせいではない」としているわけです。

そのような被害者のストーリーを私たちはこの世界の夢の中でひと、こと、状況を変えてやっているということです。

自分は神のひとり子(夢を見ている者)であるということを忘れて、です。

というのも、神のひとり子は、被害者になることによって、分離、罪、攻撃、裁きといったものを実在させることができるだけでなく、被害者でいることによって、自分は無罪で、無垢なる者でいることができるからです。

それが、自我がしていることであり、私たちがしていることです。

私たち(自我)は、そのようにして「分離(自我)の実在性」を証明し続けているといえます。

つまり、「自分は存在している」、でもそれは「自分のせいではない」と。

ワプニック博士は、それを「二重の願望(twofold wish)」というふうな言い方で呼んでいます。


”すべての背後には、自我の想念があります。 それは、「私がここに存在し続ける方法は、”自分は 肉体としてここにいるが、その責任は自分にはない”と 実証し続けることである」という想念です。”

ーJACIMサイト別館「V#39: 自己破壊的な行為」よりー


ようするに、「世界」「人生」というものは、二重の願望のその反映として、それがこの世界に投影され、実演されているだけなのだということです。


世界それ自体は無である。あなたの心が世界に意味を与える。あなたがそこに見るものはあなた自身の願望である。自分の願うものを眺めて、それらが実在すると思うことができるように、実演されたものである。(W-pⅠ.132.4:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


つまり、私たちはこの世界のあらゆるもの、こと、状況に、自分からあえて意味を与えることによって、自らの願望を叶えることをしているだけなのです。

でも言い換えるならば、自らがただ願望して見たいものを見ているということが自覚/認識されるならば、もはや自分は被害者ではないと分かるわけで、そこにこそ救いがあるといえます。

コースでは、それを「救いの秘密」という言い方で教えてくれています。


救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。(T-27.Ⅷ.10:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの実践で私たちに求めれらているのは、自分はけっして被害者ではなく、自分の内側に責任があると自覚/認識していくことだということです。

そのためには、私たちは必ず、真の原因があるところへ戻っていかなければならないということです。

それが、「決断の主体」と呼ばれているところであり、コースの実践では、そこへ戻っていく練習をしていくわけです。

そこへ戻っていくならば、自分は「被害者ではない」ことが思い出されるだけでなく、「そもそも被害者も加害者もいなかった」ということが思い出されることになります。

いわゆる、それが聖霊(正しい心)と共に見ている視点です。

そこから見るとき、すべてが虚偽であることが明らかになります。

要約するならば、

私たちはコースの実践を通して何を目指しているのか?

というならば、その聖霊(正しい/正気)の視点を思い出していくための訓練をしているのだということです。

そして、そのための手段をコースで「赦し」と呼んでいるということです。


”あなたの願望以外、世界それ自体は無です。あなたの決断の主体が意味を与える以外に世界は無です。ここに究極的な解放があります。何を見たいか?についてあなたの心を変えると、形態は変わりませんが、知覚は変わります。コースの鍵となるテーマの一つは、知覚は事実ではない、ということです。わたしたちが見るものの解釈です。”

ー『On Death and Dying』ワークショップ ワプニック博士の講話よりー


コースの「赦し」とはそういうものだということをしっかり理解しておくだけでなく、それは知覚の変容(訂正)をともなうものであるということも覚えておくと良いでしょう。



参考資料:JACIMサイト別館ビデオ「V#39: 自己破壊的な行為


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