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怒りにどう対処していけばいいのか?
怒りを正当化しないこと
怒りが収まらないとき、どのようにしたらよいのでしょう?
というなら、その怒りを正当化しないということです。
怒りは決して正当化されない。(T-30.Ⅵ.1)
それは、怒ってはいけない、ということではありません。
むしろ、この世界に居ると思っている私たちが「怒らない」「攻撃しない」でいることのほうが不可能だということをわきまえておくとよいでしょう。
というのも、その「怒り」「攻撃」は、けっして個人的なものではないからです。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)形而上学からいえば、その「怒り」「攻撃」は、この世界の人や物事や状況などの対象とは一切関係ないということです。
その実用的な練習となるのが、ワークブック・レッスン5です。
私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。(W-pI.5)
私たちが動揺するとき、(自覚していようがいまいが、)本当は自分で動揺したくてしているのであり、外側の世界とは一切関係がないということです。
コースの赦しの実践を通して、私たちは外側のせいで動揺して(怒って/攻撃して)いるのではないということを体験的に理解するようになります。
自分の内側に正直なっていくならば、そのことを自覚/認識することができます。
そのことを理解するようになるとき、次第に怒りを正当化できなくなっていくといえます。
何度も申しますが、「怒りを正当化しない」というのは、怒ってはいけないということではないということです。
まずは、「怒りを正当化しようとする」ことに寛容になっているのを自覚/認識していくことです。
怒りを正当化しようとしている自分を自覚/認識すること、そして、それに対してOKとしないとしていくのです。
つまり、「私はそれを望まない」としていくということです。
聖なる瞬間に必要な条件として、清くない考えを一つももっていないことが、あなたに要求されているのではない。しかし、そうした考えを一つも持ち続けたくないと思うことだけは要求されている。(T-15.Ⅳ.9:1-2)
怒りを抱いてはいけないということではありません。
それを持ち続けたくないと望むことが、私たちに求められていることなのだということです。
それが、「怒りを正当化しない」ということの意味です。
それは、怒りを否定するものではないということを覚えておきましょう。
もし怒りを否定しようとするなら、つまり怒らないようになろうとするなら、その自分(自我)と闘うことになり、なおさら怒りが増長することになるだけです。
怒っている自分は、自我です。
その自我が何をしているのか?それをありのままに見るのです。
しかも、イエス/聖霊と共に、つまり、咎めずに、です。
あなたがその自我を聖霊と共に見るなら、すべてが個別性、特別性、個人性を実在化させ、自分をこの世界の中に根付かせるために自我がただそうさせているだけだと認識するでしょう。
ただし、それは、地道な学びと訓練によって、そのように見ることができるようになるのだということです。
もう一度申しますが、怒ってはいけない、ということではありません。
怒らない人になりましょう、という訓練なのではないということです。
怒りを正当化させようとするその奥にある目的は何か?を見ていくのです。
それができるようになるには、学びと訓練(練習)をしていくほかないということです。
繰り返し、学んでいくしかないのです。
練習、そしてまた練習、あるのみです。
それが何を意味するのか?というなら、たとえ怒りが抑えられない自分であったとしても、その自分に対しても優しくいなさい、ということです。
まさに、イエス/聖霊は、私たちに対してそのように見ているといえます。
そう、私たちは、イエス/聖霊の見方、在り方を修得するために、コースを学んでいるわけです。
自分は何のためにここいるのか?
そのことを思い出すことです。
ここは<教室>なのだということをいつのときも忘れないようにしましょう。