ワンネス体験や愛の体験について
ここでは訓練や修得すべきことがある
ワンネス体験や見性体験といった一瞥体験のことを、コースでは「啓示」というふうに呼んでいます。
あくまでも、それは一時的な経験であり、コースの学びのゴールとするものではないということは知っておくべきです。
そういった体験は疑念と恐れの一時的な停止の体験であって、疑念や恐れが消滅したわけではないということです。
ですから、たとえ一時的には神の愛や、神の平安に触れたとしても、結局、私たちはその疑念と恐れによってこの物理的な夢の世界の中に戻ってくることになるわけです。
つまり、自我(の思考体系)とまた同一化してしまうことになるということです。
何が言いたいのかと言いますと、
どんなに目覚めの体験、悟りの体験をしたとしても、人生の夢がそこで終わるわけではなく、相変わらず、人生、つまり、夢は続くわけで、
そうであるならば、まだ訓練や修得していくべきことがあるということです。
つまり、夢の中にいるかぎり、私たちがしていかなければならないものとは、自我や罪悪感、恐れといった、つまり「愛を阻む障壁」を見つけ出すことをしていくということです。
それによって、「愛を阻む障壁」は取り消されていくのであって、それらを取り消すことなしに、いくらワンネス体験や愛の体験をしたとしても、自我が消滅したわけではないということです。
そして、もしそれらが取り消されていくならば、ここに愛の臨在を知覚するようになります。
いわゆる、コースでいうところの「幸せな(赦しの)夢」へと知覚がシフトしていくことになります。
それをコースでは、天国のワンネスを反映した世界という意味で「実相世界」というふうに呼んでいます。
ようするに、コース学習者の私たちが目指しているゴールはその実相世界なのであり、それが達成されるまでは、つまり、ここ(この世界を知覚しているかぎり)では訓練や修得すべきことがあるのだということを覚えておきましょう。
為すべきことは、愛を探し求めることではない
コース学習者の私たちは、その学びと実践において、ついワンネス体験や愛の経験に焦点を向けようとしてしまいます。
それは、コースの学習者にかぎらず、ノンデュアリスト、真理の探究者である私たちの習性として、そうしてしまうといえます。
そうすることがいけないわけではないのですが、それではコースの教えている目的とは、まったくちがう方向に向かっているということです。
コースの学びと実践はそういうものではないということを知っておかなければなりません。
自我や罪悪感や恐れというものを直視することをしないで目覚めや悟りに到達しようとする試みは、まさに否認、隠蔽しようとする試みであり、それこそが自我の策略なのだということです。
そのようにして自我は罪悪感や恐れを保持しようとする、つまり、目覚めることに対して防衛するのだということを私たちは知っておかなければなりません。
それは、ワンネス体験や愛の体験といったものを否定しているのではありません。
ワンネス体験や愛の体験といったものにフォーカスすることによって自我を否認してしまうことに十分に警戒しましょう!ということです。
自我(愛を阻む障壁)を直視することをしていかないならば、それらが取り消されることはないわけです。
もしそうであるならば、まったく意味をなさないことをしていることになりますし、それはコースの実践ではないということです。
ワプニック博士は、そのことについてテキストの文章を引用して、以下のように述べています。
”一体性と愛の経験に焦点を合わせることは、しばしば、自我の目的に沿うものとなってしまいます。その目的とは、心が罪悪感と同一化している状態を私たちに絶対に直視させないように防衛することです。〈特別な関係〉の中で、霊性と愛により覆い隠してしまうことで自我を否認しようとするこの強い誘惑に対し、イエス(コース)は次のように私たちに警告しています。”
何度も申しますが、それはワンネス体験、見性体験、一瞥体験といったものを否定しているのではありません。
コースの学びのプロセスにおいてはそういった体験をすることもありますが、コースではそれを目的とはしていないということです。
コースの学びと実践をしていくにあたって私たちが目指しているのは、愛を阻む障壁を、つまり、自我を取り消して(undoing)いくことであり、それらが一切取り消された世界を体現することなのだということです。
そして、それをコースでは「目覚め」と呼んでいるのだということを知っておきましょう。