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コースは厳しい霊性の道?それとも優しい霊性の道?
コースの教えそのものに妥協がないからこそ
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者の中には、「ワプニック博士の解説は妥協がなさすぎて厳しい」と感じておられる方々がけっこうおられるのではないでしょうか。
でも、実際は、ワプニック博士は厳しさの真反対であるどころか、私たちコース学習者がどれだけ不真面目なコース学習者だとしても寛容であった教師だったと言うことができましょう。
彼の解説が厳しく思えてしまうのは、コースの教え自体がそのようなものであるからだといえましょう。
ワプニック博士は、コースの三部作(テキスト、ワークブック、教師のためのマニュアル)に書かれてあることを、ただそのまま解説してくれているだけなのです。
実際、ワプニック博士が解説に基づいてテキスト、ワークブック、教師のためのマニュアルを読んでみると、ワプニック博士の言葉はもともとコースの中に書いてあった内容だったということに気づかされるはずです。
つまり、私たちが特に見落として、スルーしてしまいがちな内容について、ワプニック博士はただ忠実に伝えてくれているだけだったということが分かるわけです。
ワプニック博士の解説するコースが厳しいと感じるということは、つまりは、それだけコースを学ぶことに対して抵抗しているのだと言うことができます。
コースを学びたくない、理解したくない、という精神力動が働いているということです。
それがいけいということではなく、むしろ、「学びたくない」「難しい」と感じるそれこそが、自我の抵抗(防衛)なのだということを私たちは自覚/認識しなければならないということです。
その抵抗は、私たち誰もの中にもあるものです。
なにせ、その抵抗は自覚されていない私たちの無意識の部分に隠されているので、自分は本気でコースを学んでいると思っていたとしても、実際は、さまざまなかたちで学ぼうとすることに防衛しようとするのです。
なので、その無自覚の抵抗(自我)を意識化して自覚していくことが、コース学習者の私たちに求められているわけです。
(もちろん、そのためにはワプニック博士が解説する教材で学んでいくことをお勧めします。)
自我の防衛(抵抗)を自分の中に自覚/認識していくことがとても重要なのだということです。
そうすることで、私たちはコースの学びをよりスムーズに進めることができるといえます。
自我の抵抗に気づいていくこと、そして、それを咎めずに見ていくならば、自我(の抵抗)はその力を失っていきます。
そのような実践的なところを、ワプニック博士は私たちに解説してくれているのです。
コースで述べられて内容は、この世界の夢から真に目覚めたい、そして神のもとに帰りたいと望む私たちにとって、学ぶべき必要なことが述べられているにすぎないということです。
ワプニック博士が「妥協がなさすぎる」「厳しい」ということではないのです。
むしろ、私たちは学ぶべきものであるにもかかわらず、それ対して妥協したくなる誘惑のほうに警戒すべきだといえるでしょう。
妥協することがいけないということではありません。
妥協して学ぼうとすることがどういうことなのか?ということに自覚的にならなければならないということです。
妥協するということは、「自分は神のもとに帰りたくない、自分は苦痛、苦しみの夢を見続けていたいのだ」と宣言しているということです。
そのことを自覚していくなら、その自分(自我)がいかに狂っているかを認識することができるでしょう。
苦痛、苦しみでしかないこの世界の夢から本気で目覚めていきたいのであるならば、「ワプニック博士が教えるコースは厳しい、難しい」ということなど理由にならないということです。
コースを本当に学んでいきたいのか?そして本当に理解していきたいのか?
その意欲があるのか?
それこそが、コース学習者である私たち全員に問われるべきものだといえましょう。
むしろコースは優しい霊性の道である
上記のことに関して言えば、コースの学びにけっして妥協してはいけないということではありません。
むしろ、私たちが最初から妥協することなく学びと実践をしていくことなどできないといえましょう。
コースのイエスは、そして、ワプニック博士は、そのことを重々分かっているということです。
もっといえば、コースは、私たちがコースが教えている通りにはできないという前提で、そんな私たちがどのような学びと訓練をしていけばいいのかについて、三部作(テキスト、ワークブック、教師のマニュアル)を通して、詳しく述べられていると言うことができます。
まだまだ訓練が成されていない私たちにとっては、むしろ、妥協しながら学んでいくほかないということです。
進歩した神の教師でないかぎり、妥協しないということなどできるわけがないのです。
コースのイエスは、そのことを重々承知して、以下のようにも述べているわけです。
時期尚早に奇跡に接すると、パニックに陥るかもしれない。(T-2.Ⅳ.4:9)
最初から私たちが妥協しないで学びを進めていくなどできないという前提で、コースのイエスは私たちを優しく導いてくれているといえます。
というのも、私たちは、神の愛を、真理を、目覚めることをひどくを恐れているからです。
その恐れ、罪悪感を増大させることが、私たちにとってもっともやってはいけないことなわけです。
そもそもが恐れ、罪悪感を取り消していく道であるにもかかわらず、もし恐れや罪悪感を増大させるとしたなら、何のためのコース学習か!?ということになりかねません。
コースのテキスト2章のセクションⅣ「恐れからの解放としての癒し」の後半のあたりにも、そういうことについて書かれてあります。
ワプニック博士もこう云ってくれています。
「私たちは、妥協せずに、魔術を使用せずに、この世界で生きていくことは不可能です。ですから、妥協しながら、魔術を使いながら、コースを学んでいきなさい!実践していきなさい」と。
コースのイエスは私たちを優しく導いてくれているのが分かるように、コースは他の一元論のスピリチュアリティと比べるなら、優しい霊性の道だと言うことができるでしょう。
他の一元論のスピリチュアリティは、神との直接的な合一を目指しているといえます。
でも、じつのところ、私たちは、神のもとに帰ること、つまり、この世界から目覚めることをひどく恐れているわけです。
ですから、私たちはこのコースの学びと実践を通して、間接的なアプローチを取っていくのだということを知っておきましょう。
つまり、恐れ(罪/罪悪感)といった障壁を見つけ出して、それらを取り消していくことによって、神のもとに帰っていくということです。
「もともと神からの分離は起きていなかった」と受け入れることがコースでは「贖罪」と呼んでいるものであり、それがコース学習者の私たちが目指しているものなわけです。
そう、コース学習者の私たちは、贖罪を経由して神のもとに帰る、という間接的なアプローチを取っていくということです。
そういう意味で、他の一元論のスピリチュアリティと比べて、コースは優しい霊性の道(スピリチュアリティ)であると言うことができます。
「恐れ/罪悪感/罪はない」「分離はない」ということを悟るまで、つまり、「贖罪」を受け入れられるまで、私たちは知覚の訂正をしていくということです。
たしかに、コースの教えそのものには妥協はありません。
とはいえ、コースは、(他の一元論のスピリチュアリティと比べたなら、)穏やかなプロセスを経由して神のもとに帰って行く優しい霊性の道なのだということを知っておくと良いでしょう。