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自分とは何者か?を思い出すことが目的なのだということ
自分は誰か?と問うていきなさい
私たちは何を目的にコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのか?
というなら、真の自己(真のアイデンティティー)を思い出すことが目的であるということは言うまでもありません。
自分とは何者か?
私たちはその真実をまったく忘れて、いわば、記憶喪失になっていると言うことができるでしょう。
それどころか、自分ででっち上げた偽りの自分のほうを自分だと信じ込んでいる状態になっているといえます。
だからこそ、コース学習者の私たちは、今自分だと信じている自分を、そして自分の考えを疑問視していくことが求められているわけです。
このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である。一つでも隠されて曖昧にしておかれるなら、それはあなたの学びを危うくするだろう。(T-In.2:1-2)
疑ってみようとする意欲が必要だと、コースは教えてくれています。
というのも、それが意味するのは、自分だと信じているその自分(self)が自我(非実在/嘘)であることを受け入れるということだからです。
それが、私たちに求められていることだといえましょう。
そして、それをコースでは、「自我を教師とするのをやめて、聖霊を教師とする」とか「教師を選び直す」というふうに言っているということです。
問うべきことは、あなたが自我にどのように対応すべきかではなく、自分自身を何であると信じているかである。信念とは自我の機能であり、あなたの起源が信じるかどうかの対象とされている間は、あなたはそれを自我の観点から眺めている。もはや教えられる必要がなくなったとき、あなたは神をただ知るのみとなる。別の知覚の仕方があるという信念は、自我の思考に可能なもっとも高尚な考えである。なぜなら、その考えには、自我は自己ではないという認識が密かに含まれているからである。(T-4.Ⅱ.4:7-11)
自分自身を何であると信じているか?
ちなみに、聖者ラマナマハルシは、その方法として「自分は誰か?と問うていきなさい」と説きました。
コースも、それと同じことを述べているといえます。
問うべきことは、あなたが自我にどのように対応すべきかではなく、自分自身を何であると信じているかである。(T-4.Ⅱ.4:7)
自分自身を何であると信じているか?
コースの実践的なところから言うならば、自分を「人間」「肉体」だと信じていること自体がまったくの誤りであり、そうであるなら自我の観点(視点)から眺めているということです。
信念とは自我の機能であり、あなたの起源が信じるかどうかの対象とされている間は、あなたはそれを自我の観点から眺めている。(T-4.Ⅱ.4::8)
自分の内側を観察するならば、私たちは常に、自我と共に見ている(自我を教師としている)ということが分かります。
それゆえ、私たちに求められていることは、まずは、自分は自我の観点から眺めている(自我と共に見ている)ことを自覚/認識することです。
そうすることによって訂正が可能となります。
つまり、自分が知覚しているもの、考えや信念、それらすべてを疑問視していくことができるようになっていきます。
すると、次第に、「心」の自分を自覚できるようにもなっていきます。
(ちなみに、その「心」とは個人的なものを超えた(全体なる)心のことを言います。)
というのも、この世界で知覚していることすべては「心」の自分が自分で望んでそのように知覚(解釈)しようとしているだけということが自覚できるようになっていくからです。
私は自分が見ている世界の被害者ではない。(w-p1.31)
その自分は、個人の肉体ではなく、個人を超えた「心」であることを自覚しています。
そう、コース学習者である私たちは赦しの実践を通して、「心」の自分を自覚していくことを目指しているわけです。
ですから、日々の実践において私たちがフォーカスしていくべきものとは、自分の人生で起きていることでもなく、自分が経験していることでもなく、自分自身を何であると信じているか?なのだと言うことができましょう。
この霊性の道は、自分とは何者であるか?を完全に悟る(思い出す)まで、真のアイデンティティーを思い出していくための訓練なのだということを忘れないようにこの道を歩んでいきましょう。