自我か?聖霊か?その選択について私たちが理解しておかなければならない重要なこと
あくまでも神話であることを忘れないこと
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちは、
自我か?聖霊か?
その選択の訓練をしていくことが求められているわけですが、
ここで私たちが理解しておかなければならない重要なことがあるといえます。
つまり、私たちがわきまえておかなければならないのは、自我(幻想)を実在化させてしまっているからこそ、その訂正である「聖霊」という概念があり得るのだということです。
言い換えるならば、私たちは分離(の想念)を信じているので、「分離は起きていない」という訂正が必要なのだということです。
自我か?聖霊か?
という選択も、その意味を理解するならば、
狂気のままでいたいのか?正気に戻りたいのか?
ということです。
そしてコースではそれを、
自我の(狂った)見方で見るのか?
あるいは、
聖霊の(正気の)見方で見るのか?
という言い方をしているということです。
私たちはこの今も尚、分離の夢を見続けていますし、つまりは、狂気のままでいようとしています。
その自我(の力動)に気づいていくことが正気(聖霊)へと戻っていく第一歩であり、それが正気(聖霊)と同一化していく方法なのだということです。
さらにいえば、その学びが深まっていくにしたがって分かってくるのは、
私たちは分離(の想念)を信じているがゆえに「選択」というものがあるのであって、非二元から見るならば、本当は「選択」すらあり得ないのだということです。
もともと「選択」すらしていなかった、というのが贖罪の原理なわけです。
そして、それが非二元の真理です。
学びが深まっていくにつれてそのことが明らかになってくるといえます。
いわゆる、二元性を超えた知覚になっていくわけです。
そう、私たちが正気に戻っていくにつれて、つまり、目覚めていくにつれて、
「自我」も実在していなければ、「聖霊」も実在していない、
ということが分かってくるということです。
「自我」が実在していると信じているからこそ、その訂正の象徴である「聖霊」という概念があるのだということです。
別の表現のしかたをするなら、
罪があるから、贖罪があるのであり、
罪という概念がないなら、贖罪という概念もない、
ということです。
それと同様に、
罪、罪悪感、恐れを信じているから、目覚め、悟りがあるのであって、
罪、罪悪感、恐れがないと分かるならば、目覚めも悟りもない、
と分かるようになってくるわけです。
ようするに、コースを学んでいくにおいて私たちは、「分離のプロセス」というものはあくまでも神話なのだということをわきまえておかなければならないということです。
そういうことを踏まえた上でコース形而上学を理解していくことが大事だということです。
自我(狂気)と聖霊(正気)という言い方をするのも、そもそも狂気(小さな狂った考え)という概念がないならば、正気(正しい心/聖霊)という概念もないわけです。
つまり、聖霊は、自我なしには存在し得ないわけです。
ですから、私たちがコースで「聖霊」と呼ぶとき、その「聖霊」は自我を実在させている者にとっての訂正のシンボル(象徴)なのだということをしっかり理解しておくべきだということです。
そのことを理解することなく、コースの「聖霊」をシンボルとしてではなく実在化させていくならば、コースの学びそもそものが一元論のスピリチュアリティ(霊性の道)から大きく外れてしまうことになりかねません。
私たちが目覚めていくとき、(つまり、それは正しい心(聖霊)の思考体系と同一化していくことを意味するわけですが、)そうなるにしたがって、コース形而上学すらをも超えていくことになるということを知っておくと良いでしょう。
それは、言葉を超えていくという意味であり、概念を超えていくということです。
コースはそのような知覚へと連れて行ってくれる霊性の道です。
そう、コースの学習者の私たちは、特に、コースの学びを通して一元論(非二元)のスピリチュアリティを探究していくのであるならば、上記のことをしっかり踏まえた上で、コース形而上学を学んでいかれることをお勧めします。
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