コース学習の成果は、この世を超越したものである
この世界を超えたところに、私が望む世界がある
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が一元論(非二元/ノンデュアリティ)のスピリチュアリティ(霊性の道)であることは周知の通りです。
その教えは、精神的な安定(平安)や、より良き人生、より良き人間関係になるといった目的をはるかに超えたものであるということです。
コースはそういうものを超越していくスピリチュアリティであるわけで、そういうことから言っても、ニューエイジやスピ系のノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティとはまったく別ものとして捉えるべきだといえましょう。
というのも、コースの目的は、この世界のこととは一切関係ないところにあるからです。
ワプニック博士は、そのような意味合いで、このコースを「純粋なる非二元のスピリチュアリティ(ピュア・ノンデュアリティ)」というふうな言い方で表現しています。
コースを学んでいくことによって、たしかにその成果として、平安になっていったり、形態のレベルにおいて状況が好転したり、人生がより良き方向に変わったりすることもあるかもしれませんが、コースの学びによる本来の成果はそういうものではないということです。
コース学習者はそれらを超越していくために、もっと正確にいえば、それらとは一切関係ない真の自己(真のアイデンティティー)を思い出していくために、コースを学び、実践しているということを忘れないでおきましょう。
もし、この世界の形態レベルにおいて好転していくことにフォーカスしていくならば、むしろこの世界にとらわれてしまうことになり、本来の目的からズレてしまうことになるからです。
あるいは、精神的に平安になることだけを求めて、苦痛、苦しみといったものを避けようとするなら、それこそ本当の意味での苦しみからの脱却はけっしてあり得ないと言うことができるからです。
そうであるとするならば、それはもはやコースの学びでも実践でもなくなってしまうということです。
私たちが学ばなければならないのは、私たちの幸、不幸の原因はこの世界の形態とは一切関係がないということです。
そして、この世界とは一切関係ない真の自己を思い出していくことがコースの目的なのだということです。
ときに、コース学習者の中にも「精神的に平安な気持ちになること」や「より良い人生になること」といったものを目的としてコースを学んでいたり、赦しの実践をしていたりしているケースがあります。
それがいけないということではありませんが、それではせっかくコースを学んでいるのに、コースを学んでいないのと同じだと言うほかありません。
もしそうなら、難解なコースをわざわざ学ぶ必要がないというものです。
もちろん、コースの目的をしっかりと分かっておきながら、その目的をすっかり忘れるということはよくあります。
いつのまにか「この世界の夢から目覚める」というコースの目的を忘れて、精神的な平安を得ることやより良い人生になることを目的にしていることはよくあることです。
それが何を意味するのか?というと、それほどまでに私たちは無意識レベルの本当のところでは、目覚めることを、真理を、ひどく恐れている、拒絶しているということです。
コースの学びが深まっていくにつれて、そういうことが自覚/認識できるようになっていきます。
ところが、コースの目的をまったく見誤っていたり、コースの本来の目的とは異なる目的でコースを学びそして実践をしていたりするなら、その学びと実践は無益な時間を費やすだけのものになってしまうといえるでしょう。
それは私自身のコース学習の経験からも言えることで、私の場合、それによって数年のまわり道した経験があります。
そうなってしまうなら、何年、何十年とまわり道をすることもあるかもしれませんし、極端にいえば、コースの教えを曲解したままその生涯が終わっていくことも十分にあり得るということです。
ですから、せっかくコースを学ぶのであるならば、正しく学んで、その成果をしっかり体現していきたいものです。
コースという霊性の道は、純粋なる非二元の道なのだということを忘れてはなりません。
このコースは、この世界も、この自分も、死ですらも超越していく、そのような霊性の道だということをわきまえておきましょう。
ヴィジョン(真の知覚)を修得していくために
コースの観点から言えば、この世界を肉眼で知覚していること自体が、ヴィジョン(真の知覚)を拒絶していると言うことができます。
この世界にいる私たち誰もが皆そういうことなわけですが、それがいけないということではありません。
コース学習者にとっては、
それがどういうことなのか?
そのことを理解/認識していくことが重要なのだといえましょう。
この世界の中の一つでも価値(重要性)を置くならば、それは自我を選択しているということであり、つまりは、聖霊(のヴィジョン)を拒絶しているということです。
そして、それによって私たちはこの世界の中に幽閉されることになるのだということです。
そう、今や、私たちはその状態になっていると言うことができます。
なので、コース学習者の私たちはこの世界を超えたところの時空(世界)の外の視座を思い出していくことによって、この世界の夢から自由になっていくことを目指しているということです。
そして、そのための実践手段を「赦し」と呼んでいるわけです。
では、赦しとは、どういうものか?
というなら、見る(looking)ということです。
それは、
この世界とはどういうものなのか?
私たちが同一化している自我とはどういうものか?
自我(私たち)はこの世界(幻想)を使って何をしているのか?
ということについて見て、はっきりと自覚/認識していくということです。
見ることによって私たちは「すべてが虚偽である」ことを自覚/認識することができるのです。
そう、それが「赦し」であり、その「赦し」によってもたらされる知覚が「ヴィジョン(真の知覚)」と呼ばれるものです。
私たちはコースの学びと実践を通して、その「ヴィジョン(真の知覚)」を修得していくことを試みているのだと言うことができます。
その「ヴィジョン(真の知覚)」は、すべての源である「心の決断の主体」に戻っていくことによってもたらされるのであって、この世界のことや人や状況といった形態にとらわれてしまうならば、その知覚を見失ってしまうことになります。
つまり、この世界のことやものを重要視しながら、「ヴィジョン(真の知覚)」はあり得えないということです。
私たちはこの世界のことやものに喜び(希望)を見出しているわけですが、それがもはやこの世界の牢獄に閉じ込められているということなのだということを覚えておきましょう。
それがいけないということではなく、そういうことをしている自我(自分自身)を見ていくこと、認識していくこと、それが私たちに求められているということです。
「死の夢」から「幸せな赦しの夢」へ
コースは、この世界のあらゆることから自由になっていくことを目的としていると言うことができます。
そういう意味でも、コースはかなり過激な教えだと言うことができます。
というのも、この世界における意味や価値を超えて、この世界を超えたところのものに価値を置いていくことを目指しているからです。
逆に言えば、そうなっていかないかぎり、私たちがこの世界の夢から目覚めることはあり得ないということです。
コースはそのための具体的な道が示してあるスピリチュアリティであるということをわきまえておく必要があります。
それは、目覚め、覚醒のための霊性の道なのだということです。
ちなみに、コースは、目覚め、覚醒という言葉以外にも、「復活」という言葉も使って表現しています。
「私の人生」と思っているそれこそ、まさに「死の夢」にしかすぎないとワプニック博士は教えてくれています。
であるにもかかわらず、私たちはこの人生が「死の夢」だとはまったく思ってはいませんし、むしろ、この人生を価値あるもの、重要なものとしているといえましょう。
だからこそ、それを見なさい!そのことを認識しなさい!と、コースのイエス、そしてワプニック博士は教えてくれているわけです。
「死の夢」にしかすぎないものを価値あるもの、重要なものとしてしまっているその愚かさ(狂気さ)を認識しないかぎり、その愚かさ(狂気さ)から自由になることもできなければ、もちろん、その夢から復活(目覚め/覚醒)することもあり得るわけがありません。
でも逆に、そのことを認識していくならば、それは「死の夢」から「幸せな赦しの夢」へとシフトしていくことになると言うことができます。
「幸せな赦しの夢」は、
「私」はいない、「私の人生」も存在しない、この世界も存在しない、
という真の知覚へのシフトと、それに伴うアイデンティティーのシフトによって達成されていきます。
真の自己(真のアイデンティティー)は夢の外にいる、つまり、この時空の世界の外にいるのだということを自覚していくことによって、「幸せな赦しの夢」となっていくということです。
そして、「真の知覚」とは、真のアイデンティティー(心の決断の主体)からみた全一なる知覚のことであり、「ヴィジョン」と呼んでいる知覚のことを言います。
私たちが知っておくべきことは、「幸せな赦しの夢」とは、この世界の状況や形態が好転して幸せになっていくこととはまったく関係がないということです。
そう、コース学習の成果はそういうものであり、この世界のこととはまったく関係ない、むしろ、この世を超越したものであるということをしっかりとわきまえてコースを学んでいきましょう。