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これまで学んできた非二元や悟りの知識をいったん脇におくつもりで

コースは他の非二元のスピリチュアリティと共通するところとそうでないところがある

なぜコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのか?

というなら、コースの教えを学んで、その実践を通してこの世界の夢から目覚めていきたいと思っているからこそ、私たちはコースを学んでいるわけです。

だとしたなら、その教え(形而上学)を徹底的に理解していくことは当然のことだといえましょう。

でもときに、コースの形而上学もよく理解しないまま、コースを他の非二元のスピリチュアリティと同じものとして捉えて、コースの教えの都合のいい箇所だけをピックアップ(採用)して、コースについて理解したつもりになっているケースがあったりします。

そこでいえるのは、他の非二元のスピリチュアリティと共通するところももちろんありますが、ただし、それらとコースの教えを同じものとして捉えることについてはかなり注意深くなる必要があるということです。

もしコースの学びが浅い段階でそうしてしまったなら、もはやコースが教えている内容を真に理解することができなくなってしまうといえるでしょう。

ですから、コースを本気で学んでいこうと思っているのであるならば、最初の段階では、なるべくなら他の非二元のスピリチュアリティと混同しないようにしたほうが良いといえます。

むしろ、これまで自分が学んできたもの(スピリチュアリティ)はいったん脇において、まっさらな状態でコースを学んでいくことをお勧めします。

というのも、実際に、コースが教えていることを真に理解していくならば、他の非二元のスピリチュアリティとは一色たんにはできないことが分かるようになるからです。

それは、アプローチの仕方がまったく真逆なのだということです。

もし、他の非二元のスピリチュアリティとコースが教えていることのちがいが分からないのであるなら、まだコースの教えを理解していないと言うことができるでしょう。

コースを他の非二元の霊性の道と混ぜこぜにすることがいけないということではありませんが、そのちがいが分からないのであるならば、まずはコースの形而上学をしっかり理解することが求められるということです。

もしそのちがいが分からないまま他の非二元のスピリチュアリティと混ぜこぜに学んでいこうとするならば、コースの教えに真に触れていくことはできなくなってしまうどころか、学びの階梯を見つけることも、そしてその階梯を上っていくこともできなくなってしまうといえるでしょう。

非二元や悟りに関する知識がある場合、特にそうなってしまう傾向がありますので、そうなってしまわないように十分に気をつけなければなりません。

その典型的な例として、自分の知っている非二元や悟りの知識の枠にはめ込んで、コースの教えを勝手な解釈で理解するということが起きてしまうということです。

コース学習においては、そういうことがいとも簡単に、そして頻繁に起きてしまうということを知っておくべきでしょう。

コースを理解したと思ったつもりでいても、じつのところ、コースをまったく分かっていないということは、コースの学びにおいては普通によくあることなのです。

もしコースが教えていることの理解が深まっていくならば、むしろ、コースの教えをもっともっと学んでいく必要性があることに気づくことでしょう。

なぜなら、自分が何者であるか?自分が何をしているか?が自覚されていくならば、その愚かさ、狂気さ、無知さが明らかになってくるからです。

もっといえば、これは必ず修得されなければならないものであることが分かってくるからです。

ですから、コースの教えを真摯に学んでいこうと思っているコース学習者に申し上げたいのは、できることなら、これまで学んできた自分のスピリチュアルな知識をまっさらにして学ぶ姿勢が求められるということです。

たとえそうでなくても、いずれにせよ私たちはコースの学びが深まっていくプロセスにおいてそれらを手放さざるを得なくなる機会が訪れることになるということも知っておくと良いでしょう。

コースは、Undoing(取り消し)、Unlearning(白紙に戻す)の道なのだということです。

コースの学びが深まっていくほどに、分かっていたつもりが、じつは何も分かっていなかった、、、ということをますます自覚していくことになります。

自分が知っていることや理解したことが崩れ落ちていくような経験は、コースの学びのプロセスにおいては当たり前に何度も繰り返されていきます。

言い換えるなら、それがコースの学びが進んでいることの証であり、逆に、そういうことがないとしたなら、それは正しくコースが学ばれていないと言うことができます。

コースの教えを他の非二元のスピリチュアリティの教えと融合させることに関して言えば、できるなら、コースの三部作に書いてある内容を理解できるようになるまでは、そういう学び方はしないほうがいいということです。

たしかに他の非二元のスピリチュアリティと共有できるところもありますが、理解もしないうちにそうしてしまうなら、せっかくのコースの深淵な部分や斬新的な部分が学べなくなってしまいかねないということです。

これまで自分が培ってきたもの(学んできたもの)を手放すつもりもなく、コースを学んでいこうとするなら、コースを真に学んでいくことはできないということです。

もし、そういう学び方をしているとしたなら、どれだけ自分はコースの教えを学びたくないか、理解したくないか、ということを自覚するべきです。

そうすることは、コースの教えを学んでいるつもりにさせておいて、本当はコースを学ばさせないという自我の防衛の何ものでもありません。

コースを本当に理解していくなら、そういうことも分かってきます。


自我について学べば学ぶほど、それは信じられないものだということが、あなたにわかってくる。(T-7.Ⅷ.6:3)

奇跡講座/中央アート出版社


開かれた心の状態へ

自我の目的は、心を幽閉されたままにさせておくことです。

それとは逆に、これまで学んできたものを手放していくことによって、心は開かれていくことになります。

開かれた心こそが、この世界から目覚めていくために私たちが修得していくべきものであるといえます。

コースの学びが深まっていくとき、それまで学んできたスピリチュアリティがいかに無価値で無意味なものにすぎなかったか!ということが分かっていくといえましょう。

私自身の学びの経験から言いましても、コースはまさにそういうものです。

実際に、コースが教えていることを本当に理解していくならば、他の非二元のスピリチュアリティとはまるで真逆の実践をしていく道だと分かります。


このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、たしかに目指している。(T-In.1:6-7)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの学びと実践を通して目覚めていこうとするのであれば、その実践をしていくための基盤となるコース形而上学をしっかり理解して明瞭にしていくことは当然なことだといえます。

その形而上学を理解することなくコースを実践しているということはけっしてあり得ないということです。

このコースは、学ぶか?学ばないか?のどちらかしかないのです。

中途半端な学びは、それは学んでいないのと同じです。

中途半端な理解、曖昧な理解は、それは理解していないのと同じです。

何度も申しますが、コースを学ぶのであれば、それまで学んできた非二元や悟りの知識をいったん脇において学ぶつもりでいないかぎり、コースを真に学んでいくことも、理解していくこともできないということです。

でも言い方を変えるならば、コースが教えていることについて真摯に学んで、そしてその内容を明瞭に理解していくならば、この世界の夢から目覚めていくための階梯(道筋)がどんどんはっきりと見えてくるようになります。

その階梯を上っていくことが自分の向かうべき方向であることをますます確信するようになっていきます。

そして、その学びが深化していけばいくほど、コースが教えている見方、考え方というものが自然なものとなり、その知覚はこれまでとはまったくちがったものとなっていくのを実感していくことでしょう。


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