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実践の中で学ばれていくことが「自学自習」の本当の意味である
学びとは、自分で自分に教え学んでいくこと
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えが次第に理解されるようになってくると、つまりある程度コース形而上学が理解されてくるようになると、そのコース形而上学すらも使って、兄弟に対してあるいは自分自身に対して、咎める、裁く、攻撃する、という経験をすると言うことができます。
なぜならば、兄弟が、そして自分自身が自我と同一化して、自我になってしまっていることがありありと見えてくるからです。
「コースではこう述べられている、コースの形而上学はこうである」と云わんばかりに、コースが教える通りに学んでいない、つまり、歪曲して学んでいる他のコース学習者に対して咎めたり、裁いたり、あるいは、コースが教える通りに実践できない自分自身を咎めたり、裁いたりしてしまうのです。
コース学習者ならば、コースを学ぶプロセスにおいて、誰もが必ずと言っていいほど経験することだといえます。
それでも、コースの学びが深まっていくことによって、それが自我なのだと自覚/認識できるようになってきます。
覚えておかなければならないのは、その自分(自我)に気付いていくことが重要なのだということです。
というのも、私たちがしていく実践は、その自分を咎めずに見る、つまり、自我を咎めずに見ることであるからです。
もし自分の正しさを主張して裁きたくなるのなら、その自分こそが自我なのだと自覚/認識していくことです。
そうしていくなら、自分の正しさを主張することが自分を平安に導くものではないということが体験的に理解されるようになっていきます。
そして、咎め、裁きがやめられないというその状態こそがその代償なのだと理解されていくことによって、私たちは裁きと攻撃の教師から平安の教師を選び直すことの必要性を認識するようになっていきます。
ここで私たちが知っておかなければならないのは、それは実践の中で学ばれていくものであり、実践を通して体験的に理解されていくものであるということです。
その実践は、咎めてはいけない、裁いてはいけない、ということではないということです。
咎め、裁きが湧き起こって来たなら、それをレッスンの機会としていくということです。
それは、たとえコースの教え(コースの思考体系)を知的に理解したとしても、それが実践の中で適用されていかないならば、何の学びにもならないということです。
もちろん、コースが教えていることを知的に理解していくことも大事ですが、それは、日常の実践において適用していくことによって、体験的理解へと落とし込まれていくものなのだということです。
要は、私たちは訓練をしていく必要があるということです。
というのも、コースの思考体系を根付かせていく唯一の方法が、それだからです。
それは、実践(訓練)を通してしか学べないものだということです。
実践的な学びにおいてこそそれは学ばれるのであり、それこそが、本当の「学び」だということです。
その「学び」とは、自分で自分に教えて学んでいくということです。
それ以外にどうやって教えを修得していくことができるというのでしょう。
コースの中のイエスはそのことについて、「手本を示すこと」(T-5.IV.5:1)というふうに述べています。
手本を示すことによって、他の誰でもなく、自分で自分に教え学んでいくということです。
そう、それが自学自習の本来の意味であり、コースはそのような霊性の道であるということです。
そして、この私も、その訓練の道を歩んでいる者であるということです。