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幻想をもたない心の状態がどのようなものであるか、あなたには想像できるだろうか
コースを学ぶ目的は何か?その目的をしっかり明確にすること
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶ目的は何か?
その目的を明確にしておくことは、とても大事です。
もし、その目的を曖昧にしたままコースを学んでいるとしたなら、その学びもその実践も曖昧なままとなり、結局、この世界の中で彷徨い続けることになってしまうからです。
そうなってしまうならば、せっかくコースを学んでいるとしても、その歩みもままならないどころか、ただ鈍化していくことになって、何のためのコース学習なのか?ということになってしまいかねません。
でも、逆に、
コースを学ぶ目的は何か?
その目的をしっかりと明確にしていくとき、その学びと実践はもっと明確になっていくといえます。
この学びと実践のゴールの先には、何が待っているのか?
私たちは(もともとそうだったにも関わらず)その記憶をすっかり忘れています。
それについてコースの中では、以下のように述べられています。
幻想をもたない心の状態がどのようなものであるか、あなたには想像できるだろうか。それはどのように感じられるだろうか。わずか一分か、それ以下の時間だったかもしれないが、あなたの平安を邪魔するものが何一つなかったときのことや、自分は愛されていて安全だと確信していたときのことを、思い出してみなさい。それから、その瞬間が、時間を超えて永遠に届くまで引き延ばされたらどうなるか、想像してみなさい。それからあなたが感じたその静かな感覚を百倍にし、それからさらにもう百倍にしてみなさい。
そうすればやっと、あなたは真理が訪れたときに自分の心がどのような状態に休らうことになるかを、限りなく微かにではあるが、推し量る手がかりを得たことになる。(W-pI.107.2-3)
この世界の私たち誰もが、幸せ、平安、喜びを求めています。
それはなぜなら、微かな記憶としてそれを覚えているからだといえます。
つまりは、私たちはもともとそうであったものをただ思い出そうとしているだけなのだと言うことができます。
さらにいえば、その微かな記憶に導かれて、このコースという霊性の道に出会い、そして、この道を歩んでいるのだと言うことができるでしょう。
あなたが住んでいるように見えるこの世界は、あなたの家ではない。心のどこかで、あなたはこのことが真実だと知っている。戻ってくるようにと呼びかけてくる場所があるかのように、あなたにはわが家の記憶がつきまとっている。(W-pⅡ.182.1:1-3)
自分はなぜこの人生で満たされることがないのだろう?
自分とは誰なのか?
自分はどこから来て?どこへ帰っていくのか?
そういう疑問を抱くということ自体が、本当はその微かな記憶を覚えているからに他なりません。
コースという霊性の道は、たしかに誰もが歩むような霊性の道ではないかもしれません。
でも、それでもなぜかコースに惹かれてしまうということは、きっと、その微かな記憶を思い出したいからにちがいありません。
コースでは、私たちはその記憶を自ら忘れたのだ、と教えてくれています。
その忘れた記憶を決して思い出さないように自分で防衛している、ということについてもコースは教えてくれています。
私たちは自ら自分にそうしていることの愚かさ、狂気さを自覚していくようにと求められているのです。
その愚かさを自覚/認識していくならば、もはやそれをOKとはしない、となっていくはずです。
言い換えるならば、むしろそのことを自覚/認識しないかぎり、忘れてしまったあの微かな記憶を思い出したいという衝動が起きてくることはけっしてないでしょう。
だからこそ、私たちはその愚かさ、その狂気さを自覚/認識していくことが求められているのです。
自我を直視する、幻想を直視する、とは、そういうことです。
その愚かさ、その狂気さを認識していけばいくほど、おのずと、コースを学ぼうとするモチベーションは高まって、その学びと実践は妥協のないものになっていくでしょう。