あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか
自我の精神力動について私たちは理解しなければならない
この世界にいる私たちはみんなゴシップが大好きです。
ようするに、他の誰かを裁いたり咎めたりするのが心地いいわけです。
というのも、そうすることで自分はまともで、潔白で、無垢だ、善人だとすることができるからです。
コースの観点から見るとき、誰かを裁いたり咎めたり批判したりしているその自分は、「自分はまともで、正気で、正しくて、優秀で、罪なき善良な人間である」と信じたがっているのが見て取れます。
いわゆる、悪人や罪人を見て、自分はそうじゃないと主張したがっているわけです。
それがどういうことなのか?というと、じつのところ、そのようにして自分と他者を別々の存在だとしているわけです。
つまり、分離の想念をそのようにして実在化しているということです。
コースの形而上学に基づいて自分の内側をしっかり観察していくとき、そういうことをしているのがはっきりと自覚/認識できるようになっていきます。
「誰かを裁くことで、処罰されるべきなのはその誰かであって、自分は罪なき無垢なる存在として処罰されずに済む」
というのが自我の精神力動なわけで、それがはっきりと認識されるようになるということです。
自分(自我)は、「あいつが悪い、あいつが間違ってる」とすることで、「だから自分が正しい、自分のほうがまともな善人である」としたいのです。
そうやって自分以外の何かや誰かに投影するわけです。
この世界の私たち誰もが、それをお互いにやり合っています。
それがこの世界の実態であり、それがこの世界にいる者たちの誰もの内側で働いている精神力動だということをコースは教えてくれています。
そのことがいけないということではなくて、その自我の精神力動について、私たちは理解しなければならないということです。
それを理解するなら、裁き、攻撃へと突き動かされている自分に気づけるようになり、自分は自我と同一化して、自我になってしまっている、ということが自覚/認識できるようになります。
それ共に、その自分(自我)がしていることの愚かさ、狂気さが認識できるようになっていきます。
そう、その愚かさ、狂気さを認識するようになるとき、ようやくそれらに対して疑問視していくことの必要性と重要性を自覚するようになるといえますし、そこから本格的な実践(学び)がはじまるといえましょう。
私は一歩退いて、神に導いてもらう
では、
コースの実践において私たちは何をしていくのか?
というなら、
まずは、自分の考え(思考/想念)を見つけ出して、それらすべてが自我の思考体系であると認識することです。
そしてさらに、その自分(自我)の考えを疑問視していくことが、私たちに求められているということです。
コース形而上学上では、それを「聖霊と共に見る」「自我を聖霊のもとに運ぶ」というふうな言い方をします。
(形而上学上で学ぶ言葉はあくまで比喩的表現であって、実際の実践は言葉通りのものではないということを知っておくと良いでしょう。)
とは言いましても、ふだんの私たちは今や自我と同一化してしまっていて、自分が当たり前のように考えているもの、そして知覚しているもの、それらが間違っている、狂っている、というふうにはまったく認識していません。
認識もしていなければ、当然、疑問を抱くことすらもしません。
まんまと自我の思考体系とそれが作り出した形態の知覚に欺かれ続けているのが、今の私たちの状態なわけです。
裁き、咎め、攻撃といった動揺が生じたときこそ、自我(の思考体系)に気づいていくための機会としていくということです。
誰かや何かを裁いたり咎めたりするとき、そのときこそがレッスンなのだということです。
自我の思考体系の基盤となっているのが、「自分はあいつとは別、自分とあいつは別々に存在している」という分離の考え(想念)なわけです。
私たちに求められているのは、その分離の考え(自我の想念)を自分はまったく信じてしまっているということを認識するということです。
つまり、「自分は間違ったものの見方をしている」ということを自覚/認識していくということです。
この自分こそが間違っている、つまり、自我(狂気)(の思考体系)を信じていることが問題なのだと気づくとき、赦しの実践が可能となります。
それを受け入れるとき、私たちは自分の知覚、価値判断、考えといったものを疑問視することができるようになります。
自分(自分の考え)を疑うことは、自分の正しさよりも、幸福、平安であるほうを望んだということです。
いわゆる、それをコースでは、「一歩退いて」とか「一歩下がる」とか「聖霊に先導してもらう」というような言葉で表現しています。
つまりそれが「聖霊を教師とする」ということであり、「聖霊に明け渡す」ということの意味です。
私たちコース学習者は、その実践を通してそれを修得(マスター)していくことを目指いしているのだということを知っておきましょう。