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「無垢なる顔を装う者」と「奇跡を行う者(ミラクルワーカー)」との違いを見分ける
無垢ではない者が無垢なる顔を装おうとする
私たちはつい、無垢なる顔を装おうとします。
つまり、自分は罪なき者であろうとするわけです。
そう、自分は清くて、正しくて、善良な人であろうと。
私たちはそうあるべきだと思っています。
特に、スピリチュアルを探究する者であったり、神聖さを求めている探究者であったりすると、その想いがなおさら強いといえましょう。
ただし、コース学習者の私たちは、清くあろう、正しくあろう、無垢であろうとするその精神力動の根底にあるものに目を向けなければならないということです。
というのも、心理学からいうならば、
清くあろう、正しくあろう、無垢であろうとすること自体が、自分はそうではないことを前提としてその精神力動が働いているということだからです。
清く、正しく、無垢であろうとすることは、それはつまり、自分はそうではないことを自分自身に証明し続けていることになるということ。
そのことを、スピリチュアルを探究する者、神聖さを求めている探究者であるならば、そういうことを理解しておく必要があるでしょう。
そうでないならば、永遠にたどり着くことのない不毛な探究をすることになるからです。
ようするに、コースという霊性の道を歩んでいくとき、その歩みは私たちが清く、正しく、無垢になっていくというようなものとはまったくちがうということです。
コースを学んでいく上で、そのことを知っておくのはとても重要だといえましょう。
コースの実践でいえば、清らかではない自分、無垢ではない自分(自我)を見つけ出して、その自分(自我)を赦していくこと、それが私たちに求められているということです。
この世界に居る私たちは自覚しているしていないにせよ、無意識において誰もが共通して自分自身について、自分は罪人で、不完全で、脆弱で、卑小で、いたらない、処罰されるべき存在だと信じています。
それゆえ、私たちは、清く、正しく、無垢な存在になろうとするわけです。
それがどういうことなのか?
コースの観点からいえば、そうすることで、じつのところは清く、正しく、無垢であることを拒絶しているということなわけです。
そのような自我の精神力動について、私たちは理解していく必要がありますし、認識していく必要があるといえましょう。
はき違えた「神聖さ」ほど茶番である
「神聖さ」とはいったい何なのか?
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、その真の意味が分かってくるといえましょう。
それは、これまで抱いていた「神聖さ」「神聖なもの」だと思っていた意味合いとはまったくちがったものだと分かってくるということです。
と同時に、今まで抱いていた「神聖さ」への憧れというものがなくなっていくと言うことができます。
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