![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/112067540/rectangle_large_type_2_d1a4be54d53caf4d0b96980b0e8f1489.png?width=1200)
私たちはどうやって価値判断なしに、あるがままに見れるようになっていくのか?
どれも等しく自我であり、等しく幻想である
私たちは「自分はこの世界の中に存在している」と信じています。
ということは、「自分は身体である、自分は人間であると」信じているということでもあります。
それが何を意味するのか?というなら、
つまりは、本当の自分(真の自己)を忘れて、自分が何者なのか?がまったく分からない状態になっているということです。
自分の本性をすっかり忘れて、「自分は身体である」「自分は人間である」という偽り(ニセモノ)のアイデンティティーを自分だと信じたまま、その自分を疑うことすらできなくなっている、、、それが今の私たちの状態なのだということです。
いわゆる、私たちは忘却(健忘症)の状態になっているということです。
その私たちは、自分は個人(身体/人間)であると信じることによって、外側に世界がある、他者がいる、というふうに知覚しています。
そのように知覚するとき、そこから見るその全部が敵(罪人)に見える状態になってしまっています。
もはや、敵、罪人を見ないではいられなくなってしまっているのです。
それゆえ、裁き、価値判断、攻撃がやめられなくなっています。
見ているそのすべてが裁き、攻撃の対象に見えてしまっています。
そのようにして、私たちはもはや自我(狂気)になってしまっています。
要は、「自分は人間である」と信じているならば、当然、そのような知覚になってしまうということです。
(つまり、この世界にいる私たちは皆そうなっているということです。)
あれは神聖で、これは神聖じゃない、あの人は崇高な人、この人は自我まみれの人だとか、そういうふうに各々の人々がまるで多種多様に異なって見えるのです。
本当は、そのどれも異なってなどいなくて、どれも等しく非実在であり、そのどれもが全一に等しく幻想であるにもかかわらず、善悪、優劣、序列という差異、ちがいに知覚が囚われてしまっているのです。
自分のほうが自我まみれだとか、あの人のほうが自我まみれだとか、あるいは、自分のほうがまともだとか、自分のほうが正しいとか、あの人は間違っている、あの人のほうがおかしいとか、、、
そういう捉え方をして、そこに差異、ちがいを知覚しています。
それが、自我(の思考体系)と同一化しているということなわけです。
だからこそ、私たちは、それが自我のトリックなのだということを思い出していくことが求められているわけです。
非二元の視点から見るならば、私たちは無を見ているにすぎないのです。
それらすべてがホントは非実在(幻想)であるわけです。
ですから、差異やちがいを見てしまっていることを自覚/認識していくことはとても重要なのです。
それがジャッジメント(価値判断)というものであり、そうし続けているかぎり、攻撃、裁きはやめられないということを私たちは学ばなければならないということです。
価値判断のない見方とは
私たちが覚えておかなければならないことは、肉眼で知覚しているということが、つまりは自我(罪)を見るために知覚している、ということです。
ですから、実践において私たちがしていくことは、
「自分(肉眼)が知覚しているものは、この自分も含めて、すべて自我である」
というふうに、すべてを同じ/同一として見ていくいうことです。
もっと具体的に言えば、すべてが一様に、全一に、自我(虚偽)であるというふうに見ていくということです。
私たち全体を「一なる自我」として見ていくのです。
そのように「一なる自我」として包含して見ていくとき、一方、それに気づいているもう一つの視点が思い出されていくようになります。
それこそが、ずっと隠されて(忘れて)いた私たちの真のアイデンティティーの視点なのです。
そこから見るならば、自我が何をしているのか?をはっきりと認識することができます。
どれも等しく「一つの自我」として、ありのままに見ることができます。
するとどうなるかというと、もはや自我を見ても否定したり、咎めたり、裁いたりしなくなります。
どれも等しく同じく自我(幻想)であるならば、ジャッジメント(価値判断)というものが必要ないわけです。
つまり、自我を咎めずに見ることができるようになるということです。
自分も含めて、誰もがすべてが自我であるなら、それがもはや咎める理由にはならなくなるということです。
「自我が問題なのではありません、自我を信じているのが問題なのです」
と、ワプニック博士もそう教えてくれています。
自我を咎めるとき、自我を裁くとき、私たちは自我に差異、ちがいをつけているのです。
あなたと自分は別の存在、あなたと自分はちがう、というふうに、です。
つまり、そうやって、自我を「一つの自我」として見ないようにさせることで、分離を強化させているわけです。
ですから、それに対する訂正が、すべてを「一つの自我」として見るということなわけです。
「一なる自我」としてすべてを包含して見るとき、そこにはもはや価値判断(ジャッジメント)はありません。
それを、コースでは「聖霊と共に見る」という言い方をします。
そう、それが、私たちが修得しなければならない知覚の仕方なのだということを覚えておきましょう。