
「赦しのやり方がわからない、赦しのやり方が知りたい」と思っているコース学習者への助言
赦しをやり方やテクニックとして捉えているなら学べない
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びはじめというものは、とにかく赦しの「やり方」を早く知りたいと思うものです。
コースの実践は「赦し」をしていくことだというふうに学んでいくので、それは仕方のないことだといえます。
それゆえに、つい、私たちは「赦しのやり方、方法が分かりたい」というふうに安直に学ぼうとしてしまうのもやむを得ないことだといえます。
でも、覚えておかなければならないのは、赦しはやり方や方法ではない、ということです。
コースを学ぶとは、どういうことか?
というなら、私たちは「赦し」について学んでいるのであり、「赦し」を修得するためにコースを実践していくのだということです。
「赦し」のやり方が分かったなら、もうコースを学ばなくていい、ということではけっしてないということです。
赦しは、コースの教えを理解していくことなしには実践できないし、コースの教えが根付いていくことなしにその修得もあり得ないということを知っておくと良いでしょう。
コースというスピリチュアリティは、この自分だと思っている自分を超えていく道です。
それが、何を意味するのか?というなら、この自分も含めてすべてを放棄していく道なのだということです。
個人の自分のまま、その自分がやり方や方法を身に付けていくというようなものではないということです。
当然ながら、コースの学びが深まっていくならば、赦しは「やり方」ではうまくいかないことを経験的に理解するようになっていきます。
ようするに、「赦しはやり方ではない」と分かってくるということです。
赦しは、じっと静かにしていて、何もしない… ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pII.1.4:1-3)
学びのプロセスが進んでいくにしたがって、つまり、コースの思考体系が根付いていくにしたがって、赦しの本当の意味がようやく分かるようになっていくといえます。
赦しとは、実相の反映、いわゆる、この(幻想)世界に愛を反映したものであるということを、私たちは理解しておく必要があります。
つまり、赦しは、私たちがこの世界を知覚し続けている限り、当たり前のものとして修得しなければならないものであるということです。
それというのも、赦しこそがそもそもの私たちにとって自然なものであるからです。
つまり、赦しは、やり方、方法、テクニックといったものではないということです。
地道に学び、そして、地道に訓練していくことによってしか、コースの思考体系(コースの形而上学)は根付ていきませんし、赦しも当たり前の自然なものとはなっていかないということです。
コース学習の歩みは、そういうものだと知っておくと良いでしょう。
思考体系のシフト、アイデンティティーのシフト、知覚のシフト
コース学習者の私たちが目指しているのは、正しい心(聖霊)の思考体系との完全なる同一化であり、正しい知覚(真の知覚)を完全なる修得なのだということです。
そして、そのための実践的手段が、「赦し」なのだということです。
しかも、それは当たり前な自然なものになるまで、つまり完全なものになるまで修練されるべきものであるわけです。
ちなみに、それは肉体の自分から心の自分へと自己認識(アイデンティティー)のシフトも伴うということも知っておくとよいでしょう。
つまり、「自分はこの世界にいる」「自分は人間である」と信じているところからこの世界の夢の外側にいる「心」の自分へとアイデンティティーがシフトしていくということです。
ようするに、学びのプロセスにおいて、真の知覚と真のアイデンティティーは別々に思い出されていくのではなく、それらは同時に思い出されていくということです。
真のアイデンティティーたる自分は、この世界(時空)の中にはいません。
その自分はこの世界の夢の外側にいます。
その視点から眺めている知覚が、真の知覚と呼ばれているものです。
申し上げておきたいのは、その修得には、コース思考体系のしっかりとした理解と訓練(実践)なしにはけっしてあり得ないということです。
つまり、真の知覚と真のアイデンティティーへとシフトしていくためには、コースの教えが正しく学ばれ、正しく理解され、正しく実践されていかなければならないということです。
もし、赦しをやり方やテクニックとして捉えながら実践しているとするなら、それはコースが学ばれていないといえましょう。
また、赦しの実践において、メソッド(方法)でなんとかしようとしているのなら、それはコースの赦しの実践ではないといえるでしょう。
そうであるならば、当然、自分とは何者なのか?を思い出していくことはけっしてないからです。
この世界にはさまざまな癒しやセラピーのメソッドやテクニックがありますが、なにせ、赦しはそういうものとはまったくちがうのだということです。
赦しとは何か?について、私たちは学ぶ必要があるのです。
そして、そのためにコースを学んでいるということです。
何のためにコースを学んでいるのか?
その目的をしっかりと明確にしておくべきです。
それは、個人の自分の「癒し」なのではないということです。
あるいは、ときに、目覚め体験、奇跡体験、至福体験といったものを目的に赦しの実践をしている学習者もいたりしますが、コースはそういうものでもないということも知っておきましょう。
むしろ、コースはもっとその先にへと進んでいく道であるといえます。
そのことをワプニック博士は「純粋非二元」という言葉を使って表現されています。
「このコースは、非二元の中でも、純粋な非二元の道なのです」と。
「赦し」は、地道な学びと訓練を通して修得していくものであって、しかもそれは完全に修得されるべきものであるということです。
このコースは、思考体系のシフト、アイデンティティーのシフト、知覚のシフトといったものを目指しているのだということです。
私たちがコースを学んでいるのは、それが目的なのだということを忘れないようにしましょう。
「赦し」を、やり方、手法、テクニックといったふうに捉えるべきではないということです。
もし、「赦しのやり方がわからない、赦しのやり方が知りたい」と、そう思っているのならば、まずはコースが教えている内容を理解できるようになりましょう。
そのためには、しっかりコース形而上学を学びましょうということです。
以上のことをわきまえたうえで、これは生涯かけて学習し、修得していく道なのだということを覚えておかれるとよいでしょう。