心の訓練がなされているのと、心の訓練がなされていないのとでは、どこがどうちがうのか?
「悟りを知っている」と「悟りを生きている」とのちがい
「悟り」について語る場合、この世界の中においては「悟りのプロセス」あるいは「悟りの段階」といったものがあると言うことができます。
ようするに、悟りには、その深さのちがいがあるということです。
それは、目覚めの度合い、というふうに言い換えることができます。
悟りを知っているだけ、あるいは、悟りを一瞥しただけというものと、悟りそのものを体現しているのとでは、まったくちがうということです。
つまり、心が訓練されていないのと、心が訓練されているのとでは、似て非なるものであるということです。
そして、後者の心の訓練がなされている者のことを、「2+2=5の思考体系の人」と呼んでいます。
つまり、「2+2=5の思考体系の人」とは、訓練によって「悟り」「非二元」そのものを体現して生きている人のことを云います。
ちなみに、分離(二元性)の思考体系のことを「2+2=4の思考体系」と呼んでいて、分離(二元性)の思考体系系をまったく超越した思考体系のことを「2+2=5の思考体系」というふうな位置付けで、そう呼んでいます。
「2+2=5の思考体系」(非二元)を生きている人は、(私の知るかぎりでは、)本当にごく僅かだといえます。
2+2=5の思考体系(非二元)について知っている人はいても、あるいは、2+2=5の思考体系(非二元)について語る人(スピーカーさん)はいるとしても、やはり、それを体現して生きている人は本当に稀だといえましょう。
そして、私(もりG)にとって、2+2=5の思考体系の人は?というなら、それがケネス・ワプニック博士であるということです。
2+2=4の思考体系の人の言葉を信じないでください
ワプニック博士は、つぎのように云っています。
再度申しますが、2+2=4の思考体系とは、自我の思考体系、いわゆる、二元性の思考体系の比喩的な表現です。
私たちが当たり前だと思っていること(2+2=4)が、じつは、誤りであるという意味で、そのような言い方で表現しているということです。
それに対して、2+2=5の思考体系とは、これまでの私たちの考え方、見方とはまったくちがう別のもう一つの思考システムである聖霊の思考体系のことを意味します。
コースの学びが進んでいくにつれて、私たちは2+2=4の思考体系と2+2=5の思考体系の識別ができるようになっていきます。
と同時に、普段の私たちの考え方、見方のすべてが2+2=4の思考体系、つまり、自我の思考体系であるということが認識されていきます。
しかも、それが狂気の思考体系であることも分かってきます。
そこでいえるのは、「それが狂気の思考体系である」と認識できるようになるということは、正気へと、つまり、2+2=5の思考体系へとシフトしていることの証だといえます。
ようするに、2+2=5の思考体系(正気)からでしか、それが2+2=4の思考体系(狂気)だとは気づけないわけです。
そのことに気づいているかどうか?それが2+2=4の思考体系か2+2=5の思考体系かのちがいだといえるでしょう。
すべてが自我(の思考体系)の声であることに気づいているかどうか?
2+2=4の思考体系を生きている人と、2+2=5の思考体系を生きている人とでは、まったくちがう在り方をしているということです。
そこにはまるで雲泥の差ほどのちがいがあるといえます。
たとえば、巷のスピ系のノンデュアリストやノンデュアリティのスピーカーさんたちを見るならば、「悟り」「非二元」を一瞥したとしても、その訓練がなされないままに2+2=4の思考体系から2+2=5について語っているのが分かります。
あるいは、社会的に認められた知識人、有識者の方々を見ても、2+2=4の思考体系、つまり、自我の思考体系に基づいた考え方であることが分かります。
ワプニック博士は、そのような2+2=4の思考体系の人の言葉や知識に騙されないように、と私たちに注意を促しています。
2+2=4の思考体系を信じていくならば、自分自身を苦痛と苦しみの夢の中に幽閉していくことになるということを覚えておきましょう。
逆に、2+2=4の思考体系にいつも気づいていって、それに対して疑問視していくならば、正気(正しい心/2+2=5/聖霊)の思考体系へとシフトしていくことでしょう。
そのとき、正しい知覚(真の知覚)がその答えとしてもたらされることでしょう。
そして、「聖霊のガイダンス」とはそういうものであるということを知っておくと良いでしょう。
聖霊のガイダンスについて
ときに、コース学習者の中で、「イエスはこう告げています、聖霊はこう告げています」というふうに、聖霊のガイダンス(2+2=5の声)を受け取っているかのようにふるまったり、あるいはそれが聖霊のガイダンスだと勘違いをしているコース・ティーチャーやコース学習者がおられたりします。
でも、コースの学び深まっていくにつれて、聖霊のガイダンスはそのようなものとはまったくちがうものだということが分かってきます。
たとえガイダンスらしきものが聞こえたとしても、そのすべてが2+2=4の思考体系、つまり自我からのものだと分かるようになるということです。
2+2=4の思考体系からのものは、この世界の夢の中のことに関するもので、つまりは、この世界を実在化させたところから語ってくるといえます。
ですから、私たちは、それが2+2=5の思考体系からの言葉であるか?2+2=4の思考体系からの言葉であるか?
その識別がはっきりとできるようにならなければならないといえます。
コースの思考体系がしっかり根付いていくならば、そのほとんどが2+2=4の思考体系からのものばかりだと分かるようになります。
たとえそれがどんなに素晴らしい神聖なことを語っていたとしても、2+2=4の思考体系の言葉にはもはや騙されることはなくなっていきます。
そうなっていくためには、やはり、2+2=5の思考体系を根付かせていくこと、つまり、コースの思考体系をしっかり学んで根付かせていくほかないということです。
神の教師の生き方、在り方
では、2+2=5の思考体系の人ってこの世界にいるのでしょうか?
というなら、2+2=5の思考体系の人というのは、極めてごく少数だと言うことができます。
私から見るかぎり、たとえコースを教えているティーチャーであっても、ノンデュアリティのティーチャーであっても、2+2=5の思考体系から生きている人はほとんど見当たらない気がします。
私にとって、そのごく僅かな中の一人がワプニック博士です。
では、
「2+2=4の思考体系の人」と「2+2=5の思考体系の人」の違いとは何でしょう?
というなら、
共通の利害、あるいは、自と他の利害の一致したところから生きている(見ている)かどうか?だと言うことができます。
つまり、2+2=5の思考体系を生きている人の特徴は、「共通の利害」を生きています。
そこには、個別性、特別性というものがありません。
一方、それとは対照的に、2+2=4の思考体系を生きている人の特徴は、「別々の利害(分離の利害)」を生きています。
個人の自分というものがあるところから語っているのが分かります。
2+2=5の思考体系を生きている人と2+2=4の思考体系を生きている人とのちがいは、そのように言うことができます。
そして、前者の共通の利害という生き方、在り方をしている者を、コースでは「神の教師」と呼んでいます。
彼らは、自分の外側には他者はいない、すべての人を自分の一部として見ている、というところから生きています。
それを生きるには「投影」にいつも気づいていく訓練をしながら、自分しかここにいないと自覚していくことによって、そうなっていくわけです。
それは実際に訓練していくことでしか修得されていかないわけですが、私自身も、もちろんまだまだその途上にいて、その訓練の道を歩んでいるということです。
私たちが覚えておかなければならないのは、その訓練はこの世界で行う行動ととは一切関係ないということです。
その訓練は、心の訓練なのだということです。
それは自分で自分に教えて学んでいくものであり、修得していくものであるということです。
それが「自学自習」の本当の意味です。
この私から見ても、2+2=5の思考体系から生きている人はほとんど見当りませんが、それでも、皆無、というわけではありません。
それを生きている人は、私にとって手本となる存在であるだけでなく、私にとって訓練していくためのモチベーションを与えてくれる存在です。
私自身も、そうでありたいものです。
それを生きている人を識別できるようになるためには、どうしたらいいか?
というなら、自分自身が2+2=5の思考体系を理解していくだけでなく、それを自分に根付かせて(教えて)いくほかないといえましょう。
ちなみに、コースの三部作を重ねて読んでいくうちに、その学びが深まっていくならば、コースに書かれてあるその言葉こそ、たしかに2+2=5からの言葉だと分かるようになります。
だからこそ、コースをしっかり学んで、そして理解していくことが求められているということをわきまえておきましょう。