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「破壊するための赦し」ではなく、「真の赦し」の実践ができるようになるために


とりわけ無価値な形の否定

この世界は幻想である。
この世界は実在しない。

それがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えの中心概念であり、私たちコース学習者は赦しの実践を通してこの世界をそのように知覚することができるようになるために学びと実践(訓練)をしているといえます。

ただし、その実践は、自分が知覚しているもの、感じているもの、経験しているものをただやみくもに否定していくことではないということを知っておかなければなりません。

(それがコースの特徴ともいえますし、その他のノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティとちがう部分だといえます。)

ときに、コースの学びが浅い段階においては、この世界を否定していくような実践のやり方をしているケースがあったりします。

コースの実践はそういうものないということを、私たちはしっかり理解しておかなければなりません。

コースでは、そのような実践のやり方について、「とりわけ無価値な形の否定」というふうな言い方で述べています。


そうする者たちは、否定の中でもとりわけ無価値な形の否定に携わっていることになる。(T-2.Ⅳ.3:11)

奇跡講座/中央アート出版社


もしそうするなら、それはただ否認抑圧しているだけであり、それが私たちがしていく実践ではないということです。

そのような実践になってしまわないように、だからこそ、コース形而上学をしっかり学んで、明確に理解して、その形而上学に基づいた実践をしていくことが私たちに求められているといえます。


破壊するための赦し

コースの誤った実践の仕方のケースとしてよくあるのが、

「すべては幻想なのだから、夢なのだから、何も起きていないのだから、、、すべてはもう訂正されて終わっているのだから、すべては愛なのだから、分離は起きていないのだから、本当は神と一つなのだから、、、だから深刻になる必要はない、だいじょうぶ、、、」

といった具合に、コースの教えの都合のいいところだけを取り上げて、まるでアファメーションしていくかのように言い聞かせて納得させるようなことをしたり、自分がイメージする(偽の)愛、(偽の)光、(偽の)平安に向かおうとしたりするということです。

それがどういうことなのかというと、そうすることで自我(闇)を直視しないで、つまり、真の問題を見ないで解決しようとしているということです。

そのようにして私たちは、否認、隠蔽、抑圧といったことをするのだということです。

あるいは、自己啓発的なテクニックや感情解放のテクニックやセラピーのメソッドを使って平安になろうとしたりすることも同様です。

そして、それを赦し(癒し)と勘違いしていたりするのです。

コースでは、それらを「魔術」と呼んでいます。

つまり、真の原因のあるところ(心)に戻らずに解決しようとする試みのことをそう呼ぶわけです。

ちなみに、「魔術」がいけない、ダメだ、魔術を使ってはいけない、ということを言っているのではありません。

魔術を使って真の原因ではないところで問題を解決しようとすることがまさに自我の策略なのだ、ということに気づいていくことが、私たちに求められているということです。

赦しは、必ず真の原因があるところへ戻っていかないかぎり、けっしてなされないということです。

もし真の原因があるところに戻ることをしていないのならば、それは赦しの実践をしているとはいえませんし、それは赦しではないということです。

そうであるならば、ただ無益(無意味)なことをしているだけでなく、よりいっそう分離を強めることをしている、ということを知っておきましょう。

コースでは、それを「破壊するための赦し」と呼んでいます。

コースの学びと実践を通してコース形而上学(思考体系)が根付いていくとき、そういうことが認識できるようになっていきます。

もっといえば、原因(心)に戻って訂正していくことができるようになっていきます。

その訂正を「奇跡」と呼んでいるのであり、それが、私たちが赦しの実践でしていくことなのだということを覚えておきましょう。


何のために赦しを実践していくのか?

何のために赦しを実践していくのか?

ということについて、私たちはしっかりとその目的というものを理解しておく必要があります。

なぜならば、その目的を見誤るならば、まったく違った実践になりかねないからです。

例えば、赦しをしていくその目的が、個人の自分のままでこの世界で幸せにあるいは平安に生きられるようになることであるならば、その実践はもはや「赦しの実践」ではなく、セラピーやヒーリングといったものに成り下がってしまうことになります。

要は、個人(偽)の自分を実在化させたまま、たとえ平安になったとしても、癒された気持ちになったとしても、何の解決にもなってもいないわけです。

それがいけないということではありませんが、もしそうであるなら、そもそもがコースを学んでいる意味がないというものです。

私たちがコースを学びそして実践していくその目的は、この人生をより良くしていくようなものではないということをわきまえておかなければなりません。

私たちが真に求めているものは、外側の世界とは一切関係がないのだということです。

もっといえば、私たちはこの外側の世界から自由になっていくことを目指しているわけです。

そのためには、「個人の自分」から「心の自分」を思い出していくことであり、それがコース学習者の私たちが目的としているものだということを覚えておきましょう。

つい、コース学習者の私たちはその目的を履き違えてしまいがちなので、そういうことをしっかりと形而上学的にも根付かせていく必要があります。

破壊するための赦し」にならないように、つまり、真の赦しの実践ができるようになるために、コース形而上学の学びを怠ることなく、曖昧なままに理解していくのではなく、しっかりと明瞭に理解していくことが必須なのだということを肝に銘じておきましょう。


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