「悟り」「覚醒」「目覚め」を探究する前に、知っておかなければならないこと
それは代償を伴うということ
「悟り」「覚醒」「目覚め」を探究する前に、私たちは知っておかなければならないことがあります。
私たちは「悟り」「覚醒」「目覚め」というものを素晴らしいものだと思っているかもしれませんが、そうではないということです。
たしかに、素晴らしいものであるにちがいはありませんが、もう一つの側面があることを知っておく必要があるといえましょう。
私たちが知っておかなかなければならないのは、それには代償を伴うのだということです。
その代償とは何か?
というなら、
すべてが無(嘘/無意味/無価値)であることが明らかになるということです。
ようするに、すべてを失うことになるということです。
私たちにとって「悟り」「覚醒」「目覚め」とは、そういうものなのだということです。
つまり、それは私たちにとっては「死」と同然のようなものなわけです。
もちろん、それは「自我の死」であるわけですが、、、
何が言いたいのかと申しますと、
私たちは自我と同一化してしまっていて、じつのところ、それをとても恐れているのだということです。
ちなみに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、それを「私たちは神の愛を恐れている」というふうに表現してくれています。
私たちは、すべてを失うことを知っていて、それをとても恐れているのだということです。
「悟り」「覚醒」「目覚め」には、そのような一面があるということです。
ただ、私たちはそのことについては知ろうとはしません。
もっといえば、そのことを語ってくれる者はほとんどいないし、いたとしても、ごく稀だといえましょう。
むしろ、悟りは素晴らしいものであって、「悟るなら至福とともに生きられる」みたいなことを謳っているノンデュアリティ(ネオアドヴァイタ)のスピーカーさんたちばかりが目立ちます。
それはまるで、「非二元は良くて、二元性はダメ」と言っているかのようにさえ聞こえます。
できるなら、そのような「ネオアドヴァイタ」のスピリチュアリズムに騙されることなく、本当のことを語って教えてくれる覚者を見つけていただきたいと思います。
同じ探究者として、純粋な非二元を探究していただきたいと願う次第です。