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それの何が問題なの?と、そう言えるようになるために


自我が問題なのではありません

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちがしなければならないのは、自我を直視するということです。

それはどのような実践をしていけばいいのか?

そして、何のためにそういう実践をしていくのか?

ワプニックさんは、コースの実践について、以下のように云っています。


”このコースのゴールは、あなたが自我から自由になるのではありません。このコースのゴールは、あなたの自我の振る舞いに対して、「大したことではない、何でもないこと、何が問題なの?」と言えるようになることです。”

ーワプニック博士のQ&Aよりー


このコースは、自我を否定していく道ではなく、自我を咎めずに見ていく道なのだということです。

それは、自我をあるがままに見ていくということです。

自分の中に、あるいは兄弟姉妹の中に自我を見るとき、私たちはつい、裁いたり、咎めたり、攻撃、排除しようとしてしまいます。

それらの背景には、自我を矯正しなければ、自我をより良い自我に変えていかねば、あるいは、自我を解体(排除)していかねば、という想いがあるわけです。

じつは、そのような考え(思考)こそが自我を否定しているのであって、自我を実在させている、自我にパワーを与えているのです。

ワプニック博士は云います。

「自我が問題なのではありません、自我を信じていることが問題なのです」と。

自我はなんら問題ではないのです。

無であるものに何の問題があるというのでしょう。

自我をどうのこうのする必要はないということです。

自我は実在していると信じてしまっていること、それが問題なわけです。

大事なのは、本当の問題は何か?ということを認識することです。

問題を認識してこそ、私たちは、その訂正が可能となるからです。

実践的なところでいえば、「信じている」ことが問題なわけですから、その訂正は、信じていることに対して疑問視するということです。

そうするとき、自分の見方ではなく、別の見方で見ようとしていることになります。

それは、自分のジャッジメント(価値判断、裁き、知覚)をまるごと明け渡すことを意味します。

コースの実践では、そういうことをしていくということです。

そう、それが、「聖霊を招き入れる」「聖霊を選択し直す」という実践なのだということです。


観察者たれ

コースの実践をしていく上で大事なのは、自我を裁こうとはしない、咎めない、自我を変えようとはしない、ということです。

もしそうするならば、余計に自我に縛り付けられるだけです。

自我をいくら改善していったとしても、自我は自我のままです。

なので、自我と闘うことをやめて、自我を赦すことです。

自我を咎めずにただありのままに見ることです。

この世界の夢を見続けているかぎり、自我が消えてなくなることはないのです。

自我が消えてなくなるときは、この自分も、この世界も消えてしまうときだということを知っておきましょう。

私たちがしていくことは、ただ自我を裁かず咎めずに(聖霊と共に)見ていく、自我を看過して見ていく、ということです。

もし裁いている自分に気づいたなら、その自分すらも咎めないこと。

そうしていくことによって私たちは観察者である自己を見出していくことになっていきます。

その観察者こそが真のアイデンティティーであることを自覚/認識するようになります。

そうしていくことで、イエスや聖霊はその観察者の視点からこの世界のすべてを見ていることが体験的に理解できるようになっていきます。

イエスや聖霊はどのように見えているのか?

というなら、すべてを虚偽(幻想/実在しない)として見ています。

コースでは、それを「聖霊の視点」「聖霊のヴィジョン」「聖霊のまなざし」「赦しのまなざし」「愛のまなざし」という言い方で呼んでいます。

その知覚を修得(マスター)していくならば、この世界の何を知覚しようとも、何を体験していようとも、「大したことではない、何でもないこと、何が問題なの?」と言えるようになります。

ぜひ、私たちはそうなっていきたいものです。

そして、それは訓練によって可能なのだということです。


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