自分はもう分かっている、という慢心に警戒しましょう
尽きることのない学びの深化
コース(奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道において、その学びは尽きることがありません。
私は、日常においては定期的に勉強会のナビゲーターの活動をしていることもあって、勉強会に向けて予習をしたり、あるいは勉強会で解説をしたりしているわけですが、その都度、上記で述べたようなことを実感します。
コース形而上学の理解の深化もさることながら、言葉を超えたところの理解の深化にはまるで尽きることがないと感じるわけです。
それは、実践していかないかぎり、けっして学ばれることの出来ない理解と気づきなわけですが、その深淵さには限界がないと感じます。
その学びと理解は、まさに言葉や概念を超えたものだといえます。
そう、見かけ上の形態では、ナビゲーターの役割をしながら、実際のところ、学ばせてもらっているのは、教えもらっているのは私のほうなのです。
勉強会のナビゲーターという活動をしているからこそ、私自身の学びの深化はもたらされているのだと思います。
なにせ、この学びにはこれで終わりというものはないのだということを思い知るわけです。
むしろ、この学びには終わりはないのだと、それは無限であるということなのだと思います。
仮にもし、「自分はもう分かっている」というふうになってしまうなら、その慢心によって学びの深化はそこで止まってしまいかねないなと思います。
学びの深化を実感するたびにそう思います。
というのも、学んでいくごとに、それまでに理解していたものはまったく浅いレベルの理解だったということが明らかになっていくからです。
それは、もはや理解が深まるというよりも、ただただ明晰(クリア)になっていくという感じに近いかもしれません。
なにせ、この学びは尽きることがありません。
それはイイ意味で、無限だということです。
それは、制限なくどこまでも深まり広がっていくものだといえましょう。
まさに、拡張(延長)とはそういうことを言うのでしょう。
ただし、自我にとっては、「学びには終わりがない」と聞くとけっしていい気がしないことでしょう。
絶望すら抱くかもしれません。
でも逆に、聖霊(正気)の側から見るならば、それは、ワクワクするような未知なるものへ好奇心として捉えられるわけです。
この学びが無限であるのは、なぜなら、自分の本性がそういうものであるからだと分かるわけです。
そのように、私たちは思考(体系)を逆転させていかなければならないということです。
「自分はもう分かっている」という慢心が、それを邪魔するということです。
思考(体系)が逆転していくならば、自分はもう分かっている、どころか、むしろ私たちは「自分は何も分かっていない」というふうになっていきます。
いわゆる、ますます「生徒」になっていくということです。
そうなっていくことで、未知なるものへと未知なる世界へとますます心が開かれていくことになります。
心が開かれていくとき、私たちは何を知覚するのか?
それをコースでいうなら、どこにでもキリストの顔を見るようになる、どこにでも愛の臨在を知覚するようになる、ということです。
それが、コースで「愛の延長」と呼ばれるものです。
つまりは、この学びに終わりはないという言い方もできますが、それはやがて愛の延長として、それを自分の唯一の機能していく学びになっていくのだといえましょう。
私たちに与えられている唯一の機能
この学びはまだまだ深めていく必要があることを実感します。
それは、「根付かせていく」と言ったほうが正確かもしれません。
もちろん、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えを完全に修得(マスター)したわけではないので、それは当然のことです。
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