神と神の国を守るためだけに警戒していていなさい!
形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない
私たちは、「この世界は現実である」「この世界は実在している」と、当たり前のように信じています。
まるで、疑うことすらありません。
というのも、私たちは五感を通してこの世界を知覚しているわけで、まさがそれが幻覚による知覚だとはけっして思えないわけです。
「この世界を知覚している」とは、どういうことか?
というならば、真理、天国とはちがうものを見ているということです。
つまりそれは。真理、天国を拒絶しているということなわけです。
そう、それゆえに私たちは分離の世界を知覚しているのであり、この分離の世界の中にいるのです。
そのようにして、私たちは真理、天国をまったく忘れた状態になっています。
それだけではなく、私たちは「自我」というニセモノの自分になって、この今も、真の自己、真理、天国を拒み続けているということです。
コースの学習者の私たちは、その自我を咎めずに見ることをしていきます。
「咎めずに」とは、ありのままに、ジャッジなしに、ということであり、コースではそれを「聖霊と共に見る」という言い方をします。
そのようにして自分(自我)を観察(正視)していくとき、自分(自我)が何をしているか?はっきりと自覚/認識することができます。
それだけでなく、その愚かさ、無知さも、自覚/認識することができます。
それというのも、自我と同一化してしまっている自分はどれだけ真理に対して、そして平安に対して防衛しているか!が明らかになるからです。
その自分(自我)はさらさら目覚める気などないわけですが、私たちコース学習者は、その自分(自我)を聖霊と共に観察していくことが求められているわけです。
それが「自我を聖霊のもとに運ぶ」ということであり、それによって自我(の抵抗)は取り消されていくのだということを覚えておきましょう。
自我に警戒していなさい!
自分の内側を観察するならば、自分が自我になってしまっていることや、さらには、その自分は真理に対して抵抗(防衛)し続けているということが明らかになります。
いうなれば、その自分がコース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるわけです。
ならば、その学びのプロセスにおいて自我の抵抗、つまり、葛藤が起こってくるのは当然なわけです。
そう、私たちがコースの霊性の道を歩んでいく上で理解しておかなければならないのは、
自我は、コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶ気はあっても、さらさら目覚める気などないということです。
私たちは、自我とはそういうものであることを理解しておく必要があるということです。
そうでないなら、私たちはその自我と戦ってしまうことになるからです。
だからこそ、私たちは自我について理解することが求められているわけで、そうするなら、私たちは、その自我を咎めずに見ることができるようになっていきます。
常に、自我に気づいていることができるようになるということです。
それが、私たちが実践によって修得していかなければならないものだということを覚えておきましょう。
しかも、それが当たり前になるまで、その訓練が必要なくなるまで、です。
というのも、自我に気づいていくことなしに、どのようにして自我と同一視している状態から脱却できるというのでしょう。
コースのイエスは、自我に警戒していなさい!と私たちに伝えてくれています。
形態の上ではコースを学んでいるとしても、そのつもりになっているだけで、じつは目覚める気などさらさらない、、、
その自我と同一化してしまっている自分に気づいていなさい!ということです。
もし本当にコースを学んで実践していこうという気があるなら、すでにこの世界を「教室」として捉えて、日々、コースの実践に励んでいるはずです。
ただし、自分に正直になるならば、そうではない自分を自覚/認識するはずです。
そうではない自我の精神力動に気づいていくこと、つまり、真理に対してどれだけ防衛しているか!に気づいていくこと、それが私たちコース学習者にとって重要なのです。
なぜなら、それが「自我に警戒していなさい!」ということだからです。
そう、それが私たちがしてかなければならない訓練なのだということです。
自我との同一化から脱却していくために
探せよ、されど見つけることなかれ。
それが自我の策略だということを理解しましょう。
自我は、目覚めたくないどころか、本当はコースも学びたくないのです。
それがこの世界にいる私たち誰もの中にある自我の本音です。
私たちはそのことを否定していくのではなく、それが自我の防衛というものであり、その自我と同一化してしまっていることに気づいていなさい!ということです。
いわゆる、その自我が目覚めていくのではないということです。
自我に気づいている(観察者の)自分のほうが目覚めていくのだということです。
「目覚める」とは、つまり、真のアイデンティティーを思い出すということです。
コースの形而上学に基づいて実践していくとき、私たちはその真のアイデンティティーを自覚していくようになります。
言い換えるなら、その形而上学のしっかりとした理解がないとしたならば、まったく間違った実践をしていくことになり、まったく無意味な学びとなってしまうことでしょう。
ですから、私たちはコース形而上学を学んでしっかり理解していくことが求められているのであり、その形而上学の理解をけっして曖昧なままにしてはならないということです。
コース形而上学の理解が深まっていけばいくほど、自我の思考体系とはどういうものなのかがますます理解されていきます。
それは、「理解」というよりも、「見える」「明らかになる」という言葉のほうが近いかもしれません。
自我はコースを学びたくなどないわけです。
なぜなら、本当に学んだなら真実を見ることになるがゆえに、そうなることを自我は何よりも恐れているからです。
でも、それが問題なわけではありません。
自我とはそういうものであることが分かっているなら、何の問題でもないということです。
その自我と同一化してしまうことが問題なわけです。
ですから、その自我にいつも気づいていることがとても重要なのだということです。
自我に警戒していくこと、それがコースの実践で私たちがしていくべきことなのだということです。
それはどういうことか?
というなら、つまりは、このコースは、愛や聖霊やイエスに同一化していくという実践なのではなく、自我と同一化しない訓練をしていく道なのだということです。