聖霊のヴィジョンについて
聖霊のヴィジョンとはどういうものか?
聖霊はどのように見ているのか?
聖霊のヴィジョンとはいったいどういうものなのか?
それは、「赦しの視点」「赦しのまなざし」というふうに呼ばれています。
今回は、
聖霊のヴィジョンとはどのように知覚されているのか?
そのことについて書いてみようと思います。
「聖霊のヴィジョン」というものについて、それはきっとキラキラときらびやかな至福と喜びに満ち溢れたようなものだろうと、つい私たちは思ってしまいがちです。
ですが、それは勘違いです。
「聖霊のヴィジョン」というものは、実際のところ、ただ単にそのすべてが虚偽であるというふうにありのままに知覚されているだけです。
いわゆる、仏教でいう「如実知見」と呼んでいるものです。
「聖霊と共に見ている」「聖霊を教師としている」というときの知覚とは、そういうものです。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、その瞬間を「聖なる瞬間」と呼んでいます。
そのとき、この世界の夢を信じていたにすぎなかったことが、体験的実感として理解することができます。
そして、そのとき私たちは愛の反映である神の平安に触れるわけです。
あくまでも、それは、けっしてキラキラしたもので満ち溢れているというようなものではないということです。
それは、もっと静かなものです。
虚偽を虚偽として見ているだけです。
それが、「赦しのまなざし」「愛のまなざし」「ヴィジョン」というものです。
とはいえ、そこにはたしかに安堵感、解放感、平安、安らぎ、至福といったものがあります。
それを、「神の平安(の反映)」とか、「愛(の反映)」と呼んでいるわけです。
それは、この世を超えたものであり、それは、この世界とは一切関係ないものです。
その知覚について、テキストでも述べられています。
コース学習者である私たちはその知覚を思い出し、そして修得していくことを目的としているということです。
コース学習者の私たちはその知覚へとシフトしていくために、そして、その知覚を修得していくために、赦しの実践をしていくわけです。
ちなみに、このコースは、真理や愛や幸せを見つけていくような道ではありません。
このコースでは、真理ではないものを見つけ出して、それを幻想(虚偽)として見ることをしていきます。
つまり、それが自我を咎めずに見るということであり、コース学習者の私たちはその知覚の仕方を修得していくことが求められているということです。
もちろん、その先には「わが家に帰る」「この世界の夢から目覚める」というゴールがあるわけですが、あくまでも、このコースは、正しい知覚(真の知覚)を修得することを目的としているということを覚えておきましょう。
その真の知覚は、正しい学びとその訓練なしでは、けっしてもたらされ得るものではありません。
それは正しい学びと実践を通してでしか修得されることはありません。
しかも、それは長期的な学びと訓練を要することも忘れてはなりません。
それでも、真摯に学んでいくならば、そして、真摯に訓練していくならば、確実に恐れや苦しみを超えたところへと私たちは誘われることになります。
それは、この世(時間と空間)を超えたところの視点であり、コースでは「戦場を超えたところ」を呼ばれるところであり、そこから見る景観は、これまで私たちがけっして知ることのなかった景観であるといえます。
それが正しく訓練されていくならば、「真の知覚」が確実に私たちにもたらされるということです。
その学びが進んでいくにしたがって、どんどんそれが確信へとなっていくのを実感することでしょう。
このコースが正しく学ばれていくとき、そうなります。
この霊性の道は、「霊的な祈り」とか「霊的な信仰」とは、まったく無縁なものだということを知っておくべきです。
ようするに、このコースは、イエス/聖霊と同じように知覚していく訓練であり、それによって最終的には、イエス/聖霊と完全に同一化していくことを目的としているのだということを覚えておきましょう。