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テキスト第30章「決断のためのルール」についての考察
イエスは私たちに何を教えてくれているのか?
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のイエスは私たちに何を教えてくれているのか?
というなら、
「あなたは間違っていますよ。あなたは嘘(狂った思考体系)を信じているだけですよ。そのことを自覚/認識しなさい。ただ夢を見ているだけということに気づきなさい!」
ということを私たちに教えてくれているということです。
そして、そのことを私たちがはっきりと自覚/認識するとき、それをコースでは「奇跡」と呼んでいるわけです。
奇跡は、あなたが夢を見ているということ、そして、その内容は真実ではないということを確立する。(T-28.II.7:1)
もし、私たちがコースが教えていることを真に理解しているとしたなら、こう応えるはずです。
「はい、その通りです。私は間違っています。だから、私はもう自分一人で価値判断するのをやめます」と。
今日、私は自分ひとりでは何も決断しない。(T-30.Ⅰ.2:2)
だから、私は自分が間違っていたことを望む。(T-30.Ⅰ.9:2)
私はこれを見るための別の見方を望む。(T-30.Ⅰ.11:4)
おそらく、これには別の見方がある。(T-30.Ⅰ.12:3)
ーテキスト第30章「決断のためのルール」よりー
もし、私たちがコースの教えを本当に理解しているなら、テキスト第30章の「決断のためのルール」で述べられている実践のその意味が理解できるはずです。
でも実際のところ、コースを実践しようとして自覚させられるのは、自分はコースが教えるようにはなかなか実践できないどころか、自分はまるでそれとは真逆のことをしているということです。
「コースで云っていることはそうかもしれないけど、、、でも、やっぱり私は自分のほうが正しいと思っています。私は狂ってなんかいません。私はまともです。私は自分でどうにかできます」
と、そんなふうに私たちはコースが教えていることに対して抵抗している自分を自覚/認識することができます。
そのとき、私たちは何をしているかというなら、
「私は、イエス、聖霊と共に見たくなんかありません。私は、自分なりに見たいのです」
と、イエスに対して反抗しているということです。
つまり、コースの教えを日々の実践として適用しないということは、まさにそういうことをしているのだということです。
自分について正直になって観察していくならば、毎瞬毎瞬、それをしていることを自覚するようになります。
自分は、毎瞬毎瞬、自我を教師としている、と。
ちなみに、それがいけないことだとか、ダメだと云っているわけではありません。
その自分を自覚/認識していくことがとても重要なのだということです。
なぜなら、そのことを自覚/認識するようになっていくなら、その誤りを訂正して、教師を選び直すことができるようになっていくからです。
イエス/聖霊は、私たちが教師を選び直すのを、忍耐強く待ってくれています。
もしあなたが、自分が完全に喜びに満ちていないときにはすでに自分は喜ばないと決断したにちがいないと気づくなら、決断が難しくないということは明白である。したがって、取り消しのための最初の一歩は、自分は積極的に誤った決断をしたが、同じく積極的に別の決断ができると認識することである。このことに関しては、自分自身に対して断固とした態度で臨みなさい。そして、取り消しのプロセスを充分に自覚し続けていなさい。(T-5.Ⅶ.6:2-4)
コースが教えていることを真に理解しているとしたなら、あなたは自分がまとも(正気)じゃないことを自覚/認識しているはずです。
それだけではなく、毎瞬毎瞬、イエス/聖霊を拒み続けていることも自覚/認識しているはずです。
いわゆる、自分たちは神と一体(ワンネス)であるという真理を思い出すことを拒絶し続けているのを自覚/認識しているはずです。
なぜ神の記憶を思い出すことを拒絶し続けるのか。
なぜ神の記憶を覚えている聖霊(正しい心)を拒絶し続けるのか。
それがどれだけ愚かなことか!
そのことを認識していくならば、あなたはそういうことをしている自分について、もはやそれをOKとはしなくなっていくでしょう。
自我を教師として選択し続けている、、、それが、この世界にいる私たちがしていることです。
ただ単にその選択を間違っているだけなのです。
そういうことを認識していくとき、あなたのコース学習の歩みは、ますます妥協のないものとなっていくことでしょう。