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ここは天国であり、同時に、ここは地獄の夢の中である


そこに知覚されるものが虚偽であるとわかる瞬間

赦しの瞬間とはどのようなものなのか?

赦しの視点(ヴィジョン)の知覚とはどのようなものなのか?

というとき、

つい私たちは、それを崇高な愛に溢れる体験のようなものだと捉えがちになります。

たしかに、そうといえばそうですが、そのような言葉に私たちは騙されないようにしなければなりません。

実際には、「赦しの視点」「ヴィジョン」はもっとクリア(明瞭)で淡々としたものです。

「すべてが嘘(虚偽)だったのだ、自分はただ嘘(虚偽)のストーリーを信じていただけだったのだ」ということが体験的に理解される、明らかになるといった感じでしょうか。

その瞬間、肉眼の知覚を超えてすべてを包含したところの「戦場を超えたところ(T-23.Ⅳ)」の知覚(ヴィジョン)がもたらされるわけです。

そのとき、そこに安堵感と解放感ももたらされます。

赦しの瞬間とはどのようなものなのか?

赦しの視点(ヴィジョン)の知覚とはどのようなものなのか?

というなら、まさにそのようなものだといえます。


” 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。”(W.pII.13.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


そのときにもたらされる安堵感と解放感を「絶対なる平安」と呼んだりもします。

なぜ絶対なのか?というなら、その平安はこの世のものとは一切関係ないからです。

それを、コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「神の平安(の反映)」と呼んでいます。

「真の赦し」によってもたらされるものとは、そういうものです。

神の平安に触れたとき、それが、愛に触れた瞬間だと分かります。

コースの学びと実践を通してその愛に触れていくことはとても重要です。

というのも、その愛に触れる体験を重ねていくことによって、それがさらにコースの学びを深めていこう、根付かせていこうというモチベーションとなっていくからです。

もっといえば、その愛に触れていることが当たり前になるまで、その真の知覚が完全に修得されていくことこそが、このコースの学びと実践の目的であると言うことができます。


ここは天国であり、同時に、ここは地獄の夢の中である

「赦し」というものが根付いていくことによって、どうなるのか?

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