生憎、わたしは神様じゃない。
この世のすべてを救いたいなんて、おこがましいにも程がある。
そんな当たり前を理解したのは、社会人になってからだった。
わたしが神様だったら
こんな世界はつくらなかった
チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲。
高校生の頃、私はチャットモンチーにハマり、特にこの曲に関しては1曲リピートで延々と聞いていた。ゆったりとしたリズムにのせて、サビに向かって力強くなるメロディ、サビでぽんと突き抜ける高音が癖になる1曲。
歌詞の意味よりも、口にした時の言葉の響き方や、メロディ重視で好きだった、んだと思う。きっと当時は。
8つほど年下の、顔も本名も知らない友人がいた。
分かっているのはSNSのアイコンとハンドルネーム、それと彼女が創り出す作品たち。チョコフォンデュのようにどろどろと蕩け、ガラス細工のように繊細に瞬き、一度触れたらじわじわと沈んでいってしまいそうな、赤と黒で染まる底なし沼。彼女が綴る文字たちは、例えるなら甘美な猛毒であった。
社会人になりたての私が「仕事に趣味に!」と自分の世界を広げている中で出会った彼女は、年の離れた私を気に入ってくれていたように思う。ただそんな彼女が、いつもなら「ヨウさん!」と楽しそうに声をかけてくれる彼女の様子がおかしかったあの日、
わたしはなにもできなかった。
「あたしの作品を、綺麗だ、すごい、って言ってくれる人たち、わけがわからないんだよね。狂ってるんじゃないのかな、こんなにあたし汚いのに。こんな家嫌だ。両親なんて大っ嫌い。あたしは汚れてるし。こんな醜い、汚れた感情を、勢いで文字にしただけなのに、そんな作品を、綺麗だって言われても、そんなの信じられないし。みんな目も頭もおかしいんじゃないの、こんなに汚れてるのに、もういやだ」
顔も、本名も、今彼女が置かれている環境も、知らなかった。
一方的に彼女が吐き出す言葉の意味がだんだんと理解できなくなってきて、ただなんとなく彩度明度の低い声色だけが私の耳に飛び込んでくる。独り言を淡々と零し続ける彼女に、あのときなんて声をかけるのが、正しかったんだろう。
私は、彼女の心の柔いところに踏み込む、ということをしなかった。「何かあったの」なんて聞けなかった。聞かなかった、が正しいかもしれない。
怖かった。
そこは、私の知らない世界だった。両親も家族も皆大好きで、いつもワクワクやときめきをエネルギーに創作をして、のほほんと生きてしまっている、平和ボケしているような私なんかには、何が彼女の救いになるのか、彼女が求めてるものが分からなかった。彼女の口から零れる悲痛な叫びが、だんだんと私自身をも蝕んでいったことは今でも忘れられない。心が下に下にと引きずられて、地面にこすれて擦り減っていくような感覚に陥っていた。
どうやったら、彼女を、救える?
・・・いや、
「救う」だなんて、私は何様のつもりなんだろう。
画面の前で、自嘲した。まだ彼女は配信中。
言葉を吐き続けてもうすぐ1時間が経とうとしていた。
SNSのボタンひとつで繋がっただけの、友人。
まだ未成年、形式上は親の庇護下にいる彼女。対して、社会人になりたて実家暮らしの私。何ができたというのだろう。近所に住んでいたのなら何か手段はあったのだろうか。当時一人暮らしをしていたら、居場所を作ることができたのだろうか。残念ながらどんなに頑張っても半日以上はかかる距離にお互い住んでいたし、我が家には何も知らない家族がいた。
「そうだね、あなたの気持ちもわかるよ」なんて、そんなことも言えなかった。だってわからないんだもの。どれだけ考えても考えても、優等生の模範解答みたいな、気味の悪いキレイごとしか、出てこない。きっとそれは彼女が求める言葉ではないと思った。
―あなたの作品はすてきだよ
―作品を好きだと言ってくれる人の言葉を信じよう
―親御さんとも話し合ってみたら?
自分自身の想像力の無さに、軽く絶望した。
「話を聞くことしかできないけど、それで良ければいつでも話してね」
適当な言葉を投げつけるのは、無責任な気がしたけれど。それでも何か、なにかを伝えたくてやっと絞り出した一言が、彼女にどう刺さったのか、そもそも届いているのか、正直今でもわからない。
わたしが神様だったら
こんな世界は作らなかった
愛という名のお守りは
結局からっぽだったんだ
「世界すべてを救うことはできないけど、私と関わってくれた人は全員幸せでいてほしいんだよね!」と、本気で思っていた。
浅はかだった。地球の真裏にいる人を直接救うことはできなくても、相手への愛さえちゃんと持っていれば、手が届きさえすれば誰だって救えると思っていた。違う。誰かを救うって、そんな簡単じゃない。ましてや私は、ただの人でしかない。ゴムゴムの実を食べたどこかの海賊みたいに、どこまでも伸びる腕は持ってないから。
両手で抱えるにも、限界ってものがある。
「蔦縁さんはすべてに平等に愛を注ぎがちだけど、それ、いつか苦しくなるかもしれないから。大事なものをちゃんと見極めて、そこに愛を注ぐようにしたほうがいいと思うよ。ま、頭の片隅にでも置いといてよ。」
いつだったか、知人に告げられた言葉。
その時は意味がわからなかったし、自分の性格にケチをつけられたようで少しだけムッとした。博愛主義で何が悪い。関わってくれる人皆が幸せでいてほしい、と頑張ることのなにが悪い。
・・・悪いことではないけれど、なかなかに無茶なことではあったように思う。すべてを平等に愛し、すべてに手を差し伸べ続けるというのは、生半可な覚悟じゃやりきれない。愛は別に無尽蔵じゃないんだ。そりゃいくらでも回復はするけど、常に大盤振る舞いできるほど満タンかと言われると、そうじゃない。
幸せの定義も違う、愛の定義も違う、そんな人々で構成された世界。私だってその構成部品の一部に過ぎない。だからこそ神様にでもならない限り、すべての人々を幸せにするなんて、あまりにも無理難題すぎる。
だけど裏を返せば、「自分の大切な人を大切にすること」だったらきっとできる。自分が持てる愛情を大事な人にしっかり注いで、幸せになれるようにと頑張ることは、どんな人にだってできる。
誰かが誰かの幸せを願って、誰かのためにがんばって
そうやって生み出された幸せが連鎖していってくれたら。
私の手の届かない、どこかの誰かが救われるのだろうか。
8つ年下の彼女は、今も元気に創作をしている。彼女の周りに、彼女の幸せを願い、救う力を持つ人たちが現れたから。
ほっとしている、というのが正直な心境。幸せでいてほしいけど、彼女を救う力が私になかったから。ちょっとだけ悔しいけど。
生憎、私は神様じゃないから。
今目の前にいる大事な人を、まずは幸せにできるように
人間らしく泥臭く頑張るしかない。
こちらに参加させていただきます。リンク上の本文までで、2757文字になりました・・・!
こちらにも引き続き参加中。83日目。