歌を餞る
今まで身内の不幸をまとめて公開する人間のことを理解の外だと思っていたのだけれど多分しないとダメだ。文字に起こさずに受け止められるほど私は小器用な人間ではないらしい。
先日、母が死んだ。
その日は午後から雪が降る予報が出ていて、前日5時まで麻雀をしていた私は眠気に抗いながら仕事に従事していた。そして昼に兄からの電話で母の死を知り、その場で上司に相談して早退させてもらい、私は母が住んでいた長野県に向かった。隣の県だというのに1番早い移動法は新幹線で東京を経由するという些か遠回りなものだった。
長野に着く頃には辺りは真っ暗で、所々に雪が積もっていた。駅からは母の兄、叔父の運転する車に乗った。当たり前だけど窓の外を見ると知らない景色ばかりで、母さんは俺の知らない所で死んでしまったんだ。と実感した。涙が出そうになった。俺よりも先に着いていた兄はきっともう泣いた後だった。
母の借りていたアパートに親族は集まっていた。朝息を引き取ったばかりの母が眠るベッドを背に、シンとした空気に8畳もない部屋は包まれていた。母の死を悼むのは私、兄、弟の三兄弟と祖父母、叔父の6人だけのように思えた。
打ち覆いをめくると母の髪の毛は随分と薄くなっていて、当然ながら記憶の母と比べると随分と老けていた。真っ白な顔色とは対照的に耳は赤黒く変色していた。ここで初めて俺は泣いたと思う。溢れるように涙が出てきて俺はアパートの外にある水の凍った喫煙所に逃げ込んだ。やはり見たことのない町だった。
母は癌だったという。詳しくは聞けなかった。
通夜、そして葬儀は6人だけで行った。祖父母は健在であったが祖母の勧めで兄が喪主を務める事になった。兄は母の生前、年に一度は必ず母に会いにきていたらしかった。
遺影は祖母が選んだ。私たちの母というよりも祖母の娘。というような写真だった。
6人だけで行われた葬儀は粛々と進んだ。がらんとした斎場は全ての音を吸い込んでしまうようで堪らず何度もタバコを吸いに外に逃げ出した。出棺の時、兄と祖母はずっと泣いていた。兄は「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返していた。私は母の顔を見ることが出来なかった。兄はそんな私が気に入らないようだった。
祖母の話では母は生前、再三私たち三兄弟を呼ぶか。という祖母の勧めを断り続けていたらしい。ただやはり、何度も私たちには申し訳ない事をした。と、許されない事をした。と言っていたそうだった。
私はそう言った祖母に、何も言うことが出来なかった。その日も午後から雪が降るらしかった。
去った日とカレーの味が違ってて
なんか嫌だったんです ごめんね
返せない月日を生きた餞に
雪を拾った歌を送るよ
結局返せなかった26年の代わりにこの2首を送ろうと思う。
どうか許してほしい。来世ではもっと良い子を授かれるように祈ることしか出来なくてごめんね。
母へ
2022.2.22.山椒魚