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家族の死期が近づいて顔を出した「悲しみ」

おばあちゃんの死期が近づいている。末期がんになって早5年。驚くほど抗癌剤治療がうまく行っており、髪が抜ける以外の副作用もないまま平穏な時間が続いていたが、転移した影響か食欲が減っている状況が最近は続いている。

リンパへ転移をした時は、少し動揺した。なんだろう。身体が「ヤバイ」とメッセージを発するかのように、締め付けられる感じ。仕事をする上で隠したい部分ではあったが、正直抑えきれない時が数日あった。たまたま自分の職場はどんなことでもシェアしやすい文化があり、MTG前のスっと吐き出させてもらうことができ、仕事をする上では支障はない。

家族が死ぬとはどういうことなのか。

自分+母+祖母の3人家族で育った僕は、今まで家族を亡くしたことがない。いままで当たり前のように話していた人がいなくなるとはどういうことなのか。記憶の中には残り続けるとは言っても、現実からはいなくなる。そこに悲しみがあることは何となく想像している。奥底ない、溢れ出る薄暗い感情が待っている気がしてならない。それを味わおうとすると重すぎて手放したくなるくらいの感情。でも、そこに大切な何かが埋まっている気がしてならない。

こうして祖母の死が近いことを感じるうちに、祖母の人生はどんなものだったのだろうか、と考え始めている。戦時中に生まれ、社長令嬢として育ち、恋愛はせずにエリートとお見合い結婚。一人娘を育て上げ、孫に対しては父のように接し、家を守り抜いた。そこにどんな葛藤があり、願いがあり、存在意義をまとい、果たしていったのか。そして、残り少なくなった今、何を僕らに残そうとしてくれているのか。

最近頻繁に言ってくるのは「いつ結婚するの」ということ。ちょっとまって、まだ早い。というのがテンプレートの回答ではある。そこに何か意味が考えると、僕が女性との関係性に何を見出すのか、と言っているのだろうか。

女性との関係。それは単に恋愛関係ではなく、母性と父性。母と子。愛と力。僕の内側にあって、ないと思っているもの。力で生きてきたからこそ、愛がないと思っているし、自立した人間を演じてきたからこそ、内側に「母」はいない感じがする。それを求めて、今までいろんな世界を歩いて探してきたのだろう。女性との関係性をアップデートせよ。それこそが今の自分がすべきことと、祖母が僕に伝えてくれている気がする。

自分の中に母性はあるか。自分の中の父性はどういった状態なのか。僕の中の子供は、母を何と思っているんだろうか。祖母との別れが訪れる前に、尻尾を出してくれると嬉しいと思っている。

「悲しみの向こう岸に、微笑みはあるというの。」

『1リットルの涙』の主題歌の歌詞。たまに大きな声で歌いたくなる。悲しみは抑えなくていい。すぐにポジティブに思う必要もない。前もむかなくていい。下をむいていい。その代わり、思いっきり悲しもう。涙が枯れるまで泣こう。それが祖母にとっての最後のメッセージになるとおもっているから。

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