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バングラデシュの激動

南アジアの上下関係と流れ


ムガール帝国やベンガルの時代を経て、東インド会社、イギリスが入って来た訳で、肥沃な穀倉地帯、デルタ地帯であったことから古くから多様な人種や宗教の人も入り込んでいたらしい。イギリスからの独立に際しては、インドとパキスタン(西パキスタン、東パキスタンという飛び地国家で)という形となった。その他、マレーシアやビルマ、ブルネイやブータン、ネパール、スリランカなども。

結果として、イギリスから独立後はインドとパキスタンは比較的大国だったかもしれないが、宗教的な対立や言語的な対立で不安定な状態が続いていた。まさに英国の分割統治が残った感じの。

その中で、バングラデシュは1971年にパキスタンからの独立戦争、大量虐殺など莫大な死者が発生し、政治も経済も困窮を究めていた。ジュートによる富を一方的に奪われ発言権も生存権も言語も失う立場にあったからである。結局は支配者がイギリスからパキスタンに移り、次にパキスタンの攻撃に介入したインドに事実上の支配を受ける形となった。

つまり、南アジアの国々はインドの言う事を聞くか、アメリカの言う事を聞くか、中国の賄賂を受けて債務の罠に落ちるか、ロシアや北朝鮮に擦り寄ってハッキングの分け前を貰うかの選択を迫られる状況ということだった。

縫製業やコールセンター、工場、労働者やPKO派遣など収入は得ているけれども抜き取られる構造なのだ。現に、バングラデシュのホテル宿泊料はインドや東南アジアよりも相当高額でインドへの賄賂が加算されていると言われていた。


クオータ制度改革運動


独立戦争後からクウォータ制度によって高失業率の中でもアワミリーグ関係者が恒久的に優遇され、2018年には制度改革運動により廃止が決まったのだが反故にされ、投票所の襲撃も恒久的に発生する中で選挙が機能しない状態が長年続いていた。そして、2024年6月には制度改革が違憲であるとの高等裁判所による判決を出し復活が決まってしまった。

その後、判決取り消しを求める運動が全国に広がり、インドの協力のもと外出禁止令やネット遮断、SNS遮断、拉致、監禁、拷問、殺害が相次いだが、国民の行進は止めどなく続き、首相の住む場所の目と鼻の先まで迫っていた。

8月5日にハシナ首相は辞任、ヘリコプターで国外脱出を図った。

陸軍参謀長は大統領と面会し、ノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌスが首席顧問として率いる暫定政権の発足を決め、8月8日に就任宣誓を行った。

不満を持つ既得権益者もいるので、紆余曲折はあるだろうと思う。カラー革命のようなものだと言う人もいる。ジアウル・ラフマンも暗殺された訳だし。それでも、「丸腰の自国民の学生や国民に躊躇なく大量に発砲して虐殺していく政権よりもましになってほしい」と思うのは国民の総意ではないだろうか。






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