暮らしの体温
湯に浸る素肌が艶めかしい。乳白色の平たい腹の中心で、ちいさな気泡が臍からヌッと浮かんできて湯気に紛れた。
水面をゆれる鱗のような影が、湯にほどけそうな素肌にうつる。
生白くぼやけるように光っていて、不確かな世界に迷い込んだイルカの亡霊みたい。
我が身ながら、美しいなあと思う。
誰もいない露天で、思い切りのばした生身の素肌があんまり白く透き通っているもんだから、すっかり見蕩れていた。
全く別人のカラダ、
いつもこうであればいいのに。
てっきり海こそ生命の還る場所かと思っていたけれど実際はそこに限った話ではなくて、
ひとには還る場所がそれぞれにあって、生きているうちにそれを見つけたとき、また新しい人生がはじまるのかもしれない。
42度の温泉の湯。70度の一煎目。36.8度のぬくもり。
和らぎの温度たち。
わたしが還るところには体温以上の温度が在ってほしいと願う。
ざぱん、と湯の殻を破るように立ち上がると、海の潮気を混ぜた空気が風となって、桃色の白餡を求肥で包んだような紅色の肌をやさしく撫でて消えた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
宿に一旦荷物を置いてきたとき、
出ていこうと戸を引けば、するん、と淡茶色のねこが入り込んできた。
さてどうしたものかとまごつくわたしに背を向け、何の気なしにまあるくなって眠りについた彼をしばらくじっと眺めていた。
人生は「暮らし」でできている。
苦しいこと悲しいことやるせないこと。みな人生の経験なのだ。
せわしなさに追われる時間も、己の無力さに押しつぶされることも。
それでも生活は続いていて、生きるために暮らしていかなければならない。
与えられた「暮らし」の時間がみな同じなのならば、 そこに宿るこまやかな繰り返しにも、しあわせを散りばめていたい。
そう思って生きていたけれど、最近どこからか甘ったれてんじゃないよと声が聞こえてくる。
自主性を取り戻す旅だった。
あまりに生活がやさしくて、あたたかくて穏やかで。
しあわせだけど、ひとりで立てなくなってしまうことは恐ろしいだった。ひとは独立しないと、少しずつ少しずつ、しあわせを感じられないカラダになってしまう、と思う。
独立といっても、少しのあいだ、独りでいる時間。
食堂でひとりカツ丼をたべたり、深夜みな寝静まったお台所でクッキーを焼いたり、星のみえない夜をひとりで明かしたり。
ひとのぬくもりに身をうずめている時間と、独りで立っている時間。
どちらかに偏りすぎてしまうと、ある日突然思うようにカラダを動かせなくなる。
だからわたしはこうしてたまに旅に出て、ひとでないぬくもりに身をうずめにゆく。またしっかりとしあわせを感じるために。
温泉でぐーーっとほぐれた身体をのばし、ゆるみかかっていたふんどしをきっちり締め直して、改めてこのままでいいやと思えた。
野良ねこのように凛々しくありたい。
ゆらりゆらりと、日を追うごとに顔色を変える道端を駆け、陽のよく当たる瓦屋根でひと休み。
外に居れば雨が降るし風が吹く。でもそんなことおくびにも出さず、澄ました顔してするりと戸を抜け、温い座布団に乗ってふあ~っとおおきな口あけて欠伸していたい。
3月の半ば、植物たちがのっそりと芽吹きはじめ、花を咲かしたら春がくる。
人間なんかよりうんとたくましい。
窓をあけると、生命のほてりが風となって、これ以上ないほど空気が満たされている。
これでいい。これがいい。
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