揚げ浸しに浸りっぱなし -吟ずる台所-
蓮根は宇宙人に似ている。
茄子と蓮根の揚げ浸しを仕込んでいる最中、蓮根を半月切りしていたらこちらを見られているような感覚に居た堪れなくなってふいと目を逸らした。
お店を始めてから早4か月。
我が店では、日本茶も日本酒も全時間帯で提供しているからこそ適した「こつまみ」という名のちょこっと小腹を満たせるようなちんまりとしたお食事を提供している。
素材をめいっぱい活かし、見た目も、味わいも胸踊るひと皿であることが第一。最も生き生きとした瞬間の食材を用い、ピンとくる繰り合わせが見つかったときようやくメニューとして確立するから、その日暮らしで作られている。
おいしいものを作るには、自らがいま心から求めているものでないと作れない。つまり空腹でないとだめなのである。第一に"食"を求めるところからはじめる。
高確率でメニューに登場する何者かのお浸し。その中でもやっぱり揚げ浸しが大好物。
恐ろしい量の油を吸っているにも関わらず一切の罪悪感を抱かせない茄子の揚げ浸しという存在。出汁の旨味に、コクへと表情を変化させた油が茄子の芯まで染み入って、口内でジュワッと満ち広がる感覚。
茄子とエリンギはどうか、栽培の段階から油分を栄養として育て、ヒタヒタの状態で陳列されていて欲しい。
均一に切れ目の入った照りのある茄子が黄金色にたゆたう油に身を浸らせている姿を見ると、あまりに心地よさそうで羨ましくさえ感じてくるのだ。
近頃マッサージに行くことが欠かせない習慣となっている。
たっぷり一時間、我が身の頭からつま先まで他所者が一点一点に集中し全身を駆使してくれる。これは、丸裸で水中に浸る感覚に似ている。
カラダというのは順応性が高く、無理な姿勢が続いても楽に感じられるほうへ楽に感じられるほうへとカラダを作り変えてゆく。そう在るために盛りあがった塊がじわじわとコリとなって重くのし掛かるようになるのだろう。
整体やマッサージは、本来あるべきではない歪みやコリを正してゆき、元のかたちを取り戻す作業を行なってくれる。
しかしそれは、楽に感じられるほうへ作り変えたカラダにとっては苦しみの再来だ。せっかく、苦しみから解放されるためにカラダを再構成したにも関わらず、また元に戻されてしまう。それは一時的な解放であり、カラダにとってはもっと大変な負担を背負うことにはなるのだが、今が楽であれば一先ずそれが正解なのである。
早く楽なほうへ戻さねばならない。無限ループの完成だ。
正しい姿勢を保つための筋力や体幹を備えることができたら、おそらく日頃のコリに悩まされることも、整体に日々の労働によって得た収入を費やす必要もなくなるのかもしれないことは頭では理解している。しかしどこかあえて背筋を伸ばすことを辞めてみたり、えいやっと背もたれに寄りかかったりしている自分がいる。
1時間まるまる快楽のなかを瞑っていると、丸一日かけても解けなかった糸玉も、蕩けてなくなるようにするするっと解けてゆくのがわかる。
身も心もほぐしてくれるのがマッサージなのだ。
気張らず浸っていたいときもある。
茄子を揚げているあいだ、次のマッサージはいつの予約にしようか、そんなことばかり考えている。
𓅪𓅿𓅪𓅿𓅪𓅿𓅪𓅿
食材と向き合う感覚と、言葉と向き合う感覚は近しく、食材を調理するように言葉を洗い、刻み、火にかけて調味する。
そのものに対する思考は途切れず巡り巡っているあいだ、その他に関する雑念はスーッと消える。心地よい湯気のなかでたったひとり、目の前の食材だけに集中している。
新しい環境にもようやく身を据えて、じっと向き合えるようになったら沸々と料理欲が湧いて収まらない。
それと同時に文章をも書くべき時だと感じるから、こつまみを題材に文章を調理することに決めた。題して - 吟ずる台所 - 。「あまり気張らない」が目標。今後この連載にはにょろりとこちらのサブタイトルを付けていきます。
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