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【小説】「共性する私たち」第6章

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第6章

武蔵境の駅からは、タクシーに乗った。

幹夫は助手席に乗り、運転手さんに病院名を告げ、
「すみません、母が倒れたので、なるべく急ぎでお願いします」と伝えた。

千弥子は後部座席に乗り、幹夫との会話を思い出していた。お母さんの体調がよくないという話。何か、持病をお持ちだったのだろうか。
幹夫さんのお母さん、どうか無事でいてください———。願うことしかできず、千弥子はもどかしくて仕方なかった。

病院には5分で到着した。
千弥子が「幹夫さん、払っておくから、先に行って!」と言うと、幹夫はうなずき、走って総合受付へ向かう。

支払いを済ませて、千弥子は幹夫を追った。

総合受付から病院スタッフが出てきて、幹夫をお母さんのところへ案内しようとするところだった。千弥子も幹夫の後ろからついていく。

集中治療室だと、家族しか入れないんだっけ…いられるところまで一緒にいよう、と千弥子が思った瞬間、視界に「霊安室」の文字が飛び込んできて、思わず目をぎゅっと瞑った。

「お母さん……………私よ、幹夫よ。お母さん………うそでしょ、お母さん!お母さん、間に合わなくてごめんねえぇ」

幹夫は霊安室に横たわる彼のお母さんにしがみつき、叫び、大声で泣いた。

「わたし…?」

千弥子は目の前の出来事の何もかもが受け止められず、放心していた。


気づくと幹夫の横に医師が立っていた。幹夫がひとしきり泣いて、落ち着くのを待って話し始めた。

「熊野さん。お母さんは、駅前のスーパーのトイレで、緊急時の呼び出しボタンを押されたんです。すぐに店員が駆け付け、救急車を呼んだのですが、搬送中に心肺停止が確認され、私が確認したのが13時53分、くも膜下出血でした」

千弥子は、ろくに働かなくなった思考を必死に動かそうとした。
じゃあ、幹夫さんがサンシャインで電話を受けたときには、もうお母さんは亡くなっていたの———

幹夫は、母親のそばを離れようとしなかった。
病院から書類を受け取り、このあとすべきことの説明を、幹夫は憔悴しきった表情で聞いていた。

「幹夫さん…」

「…千弥子さん、ありがとうね。こんなところまで来てもらって…」

「そんなこと気にしなくていいです。…いても迷惑じゃなければ、私にできるお手伝い、なんでも言ってほしい」

千弥子がそう言うやいなや、幹夫は千弥子に抱きついて、ワーッと子どものように泣いた。

泣きながら、幹夫は、千弥子には、自分のことも、最愛の母のことも知ってもらいたいと思った。


自分が、みんなと違うかもしれないと幹夫が自覚したのは、小学2年生のときだった。

母や親戚から「みきちゃん」と呼ばれ、自分もその一人称を使っていた幹夫は、周りの子たちが、一人称に「ぼく」「おれ」を言い始めたので、自分もそうしなければいけないと思ったが、自分は違うと思い、「わたし」または「みきちゃん」のままでいたいと思った。

そのことを母に伝えた。
「お母さん、みきちゃんは“わたし”って言いたいんだけど、言ったら変なのかな。おれとかぼくって、言いたくない」

それを聞いた幹夫の母親は、「この子は、女の子なんだ」と確信した。幹夫は幼稚園の頃からスカートを履きたがり、アクセサリーや化粧道具に興味を持ち、虫採りや戦隊ヒーローには見向きもしなかった。そして、仲良くなるお友達は女の子ばかりだったので、合点がいった。

「みきちゃんがそうしたいならお母さんは反対しないよ。でも、びっくりするお友達もいるかもしれない。それでもいい?」

母親は、幹夫のしたいようにさせたいと思ったが、周りから理解してもらえずに、つらい思いをすることから守りたい一心だった。

幹夫は母親の言葉を聞いて、びっくりされるのは嫌だなあと思い、
「それなら、お母さんの前でだけ、わたしって言っていい?」と言った。
それからずっと、幹夫は母親の前では、「わたし」の一人称を使うようになった。

幹夫は5才の頃に両親が離婚し、父親とは離れて暮らしていた。
母子のつつましい暮らしではあったが、幹夫は、母さえいればいいと思っていたので、特に父がいないことに対して不足を感じるようなことはなかった。

3年生になると、幹夫は男子用のトイレに抵抗を感じ始め、女子トイレを使いたいと思うようになる。

幹夫はそのことを母親に話し、ある日2人で学校へ出向いた。幹夫の担任と校長に向かって、母は、
「この子は、体は男の子ですが、心は女の子です。母親として、そう確信しています。トイレをなんとか…人目のつかない女子トイレを使わせていただくことはできないでしょうか」と頭を下げた。

先生方で話し合い、考慮してもらえることになった。
「1階の職員室横の女性トイレ」を幹夫に使えるようにしてくれた。もし誰かに見られて何か言われたら、お掃除を手伝っている、と言うことにしよう、ということまで考えてくれた。

寄り添ってくれる母、そして自分を排除しなかった先生があのときいてくれたことが、今、自分が生きていられる理由の1つだと幹夫は本気で思う。

しかし、3階の教室を使う高学年になり、1階にまで降りるのが大変で、3階の男子トイレを使わざるを得ないことも増えていく。そんなときはどうしようもなく、男の体で生まれた自分を呪った。どうして、ちゃんと女の子に生んでくれなかったの?と母に八つ当たりすることもあった。
そのときの、母の悲しそうな顔は、忘れることができない。

水泳の授業は、更衣室も水着も嫌で、腹痛と言って毎回休んだ。

6年生になって、クラスで好きな人ができた。
スポーツが得意で、他の女の子たちからも人気がある男の子。
そして、女の子たちは、月経がはじまったり、胸が膨らみだしたり、という話題でもちきりで、幹夫は彼女たちの話題についていけなくなった。
自分自身の体の変化にも戸惑い始めていた。

男の子と遊ぶこともできず、女の子といても孤独。

幹夫は次第に殻に閉じこもるようになった。
母との会話も減っていった。
男子と風呂など入れるはずもなく、修学旅行も行かなかった。

母や先生たちに心配されながら小学校を卒業し、中学校に入学すると、そこには学ランの制服と、さらにしんどい日々が待っていた。

本当は女子の制服を着たかった。しかし、同級生たちからぎょっとされることは避けたくて、その思いを母にだけ伝えて、外では飲み込んだ。
案じた母が、Yシャツの内側に、レースとスパンコールを縫い付けてくれた。学ランは嫌いだったが、そのYシャツだけは今も捨てられない。

1人でいたらいじめに遭うと思った幹夫は、男子の中に紛れて男子らしく振舞うようになった。下校途中に、みんなで気になる女子の名前を順番に言い「あいつはボインだよな」などと言って笑い合い、放課後には誰かの家で、アダルト雑誌を回し読みするような友人たちの中に身を置いてしまった。
あまりにも受け入れがたい環境だった。

もう、母親と一緒に職員室に行って、女子トイレを使わせてほしい、と頼むことなど考えられない世界になっていた。

そのうち、朝起きることができなくなり、学校を休みがちになった。
母親に連れられて、心療内科に通い始め、性同一性障害だと診断された。診断されたことよりも、幹夫にとっては、専門医に話を聞いてもらう機会を持てたことが救いだった。

それと、もう一つ、救いがあった。

幹夫の母には、10才年の離れた妹がいて、彼女がアメリカ人の夫と離婚してアメリカから帰国し、幹夫たちのそばで暮らすことになったのだ。

叔母は、幹夫にとっては少し年の離れたお姉さんのようで、母には言えないことでも、話すことができた。特に幹夫が救われたのは、

「しんどいなら学校なんて行かなくていいし、引っ越して違う学校に通ったっていいのよ」

「今は難しいけど、もう少し大きくなったら、みきちゃんは、薬や手術で体を女の子にすることだってできるよ」

という叔母の言葉だった。

こういう話は母とはできない内容なので、心強かった。幹夫は、それからいろいろと自分でも調べるようになった。

休み休みだが、学校にも行くことが増え、無理に男子の中に入っていくのをやめた。からかってくる男子もいたが、学校が終わったら走って帰って、関わらないよう努めた。苦しい時は、叔母さんの言葉を思い出すようにしていた。

卑俗な男子たちのいる高校には行きたくなくて、必死に勉強し、なんとか進学校と呼べる高校に滑り込んだ。私服なのが決め手だった。

高校生活は、自分のことを隠しながらではあったが、中学よりはずっと快適だった。同じクラスになり、バトミントン部でも一緒だった信二との出会いが大きい。
幹夫は彼のことを好きになり、いつも一緒にいた。

高校2年の夏休みの部活帰り、信二が幹夫に言った。
「俺はさ、自分のことは男だと思ってるんだけど、好きになるのも男なんだよね」
幹夫は、ギクッとして彼の顔を見た。

「お前はどうなの?幹夫」

幹夫は、自分が信二から告白された、ということには気づかなかった。「俺もしたんだから、お前もカミングアウトしてくれよ」というニュアンスとして受け取った。バレてたのか…。

「…そうだよ、私は、女だよ。こんな姿だけど、女なの」

「…えっ?そうなの?ちょっと待てよ、えっ、じゃあ俺とお前は異性ってことなの?」

「?そうだよ…」
幹夫は、信二の反応を訝しく思いながら、なんだかおかしくて笑えてきた。

「え、じゃあ、お前は俺のことどう思ってるの?」

「…好きだよ。でも信二がゲイってことなら、私のことは恋愛対象にならないよね?私はフラれたんだ」

「ちょっと待てよ、頭がついていかねぇ。俺だってお前のこと好きなんだよ。うわーでも女なら興味ねぇな」

そう言って、2人で顔を見合わせ、大笑いした。

こんなに愉快な失恋、そして切ない両想いはないよ、と幹夫は思った。笑いのあとには、泣きたい気持ちが押し寄せた。

その後も幹夫は、変わらず信二のことを目で追ってしまう自分に気付いた。きっと、これは永遠の片想いなんだろう、と観念した。
ずっと友達のふりをしてるけど———。

あの日、なぜ信二が合コンの幹事なんてやったのか、そして、人が足りないからと言って、なぜ彼が自分を呼んだのかはわからない。でも、あの場で話しかけてくれた千弥子とは、もし、受け入れてもらえるなら、フリではない、本当・・の友達になりたいと思った。幹夫はずっとずっと、女友達が欲しかった。


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※この作品はフィクションです。実在する公共交通機関名、商業施設名が出てきますが、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。

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