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【小説】「共性する私たち」第7章(最終章)

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第7章(最終章)

12月初旬の週の半ば、幹夫の母親の葬儀がしめやかに営まれた。

千弥子は3日間の有給を取って、幹夫を手伝うことにした。月曜日から4連休である。
お子さんのインフルエンザで先週休んでいた石井さんが、今週は出社できているのか気になったが、気にしすぎないことにした。

千弥子は、「大切な人のお母さんが亡くなったので、3日間お休みさせてください」と正直に会社に申し出た。身内じゃなければ許されないような気がして、自分自身の体調不良ということにしようか迷ったが、嘘をつくのは違うような気がした。

あの日、病院で幹夫のお母さんと無言の対面をしてから、待ったなしで押し寄せる手続きを、幹夫とともに一つ一つ、対応している。

すぐに連絡を取ったのは、幹夫の母親の妹である叔母だった。その後、病院に駆け付けた叔母を見たときに、千弥子は、どこかでお会いしたことがある、と思った。そして、すぐに思い出した。先週美容室で、帰り際に幹夫のことを「幹ちゃん」と呼んでいた女性だった。叔母さんだったのか…!

通夜前日、斎場に安置されている母親に寄り添う幹夫に、千弥子は付き添った。
そのとき、幹夫はこれまでの人生、ずっと抱えてきた気持ち、そして、今の心情を、ぽつりぽつりと、包み隠さず千弥子に話した。

唯一、信二と互いに告白し合った夏の日の、ロマンチックで、だけど胸がチクチク痛むあの思い出だけは、心の奥底にしまい込んで———。

千弥子に母との思い出を聞いてもらっていると、幹夫は悲しみを遠ざけていられた。

千弥子は聞きながら、泣いていた。
幹夫への慕情は、一時、封印しようと思った。

翌日の通夜では、早すぎる別れを惜しみ、母親の知人たちが訪れた。幹夫は彼女たちの励ましの声に対し、「はい、頑張ります」と気丈に答えていた。そんな幹夫の声を聞きながら、千弥子は、他の弔問客の対応をしていた。

渋谷美容院時代の仲間だろうか、と思うような雰囲気の男女数名や、幹夫の美容室のビジュアル系女性スタッフも弔問に訪れた。

「来てくれてありがとう」
幹夫は一人一人にお礼を伝え、ビジュアル系女性スタッフと千弥子には、お互いを改めて紹介した。

「こないだお店にも来てくれた友人の磯木千弥子さんで、こちらは、店を手伝ってくれてる理容師の片野舞かたのまいさん」

「りようし、さん」

「あぁ、そう。舞は美容師ではなくて、理容師なの」

「そうなんですか」と千弥子が言い、舞を見つめた。

舞がおもむろに口を開いた。
「…磯木さん、こないだ来ていただいたとき、帰り際になんか変な感じになっちゃってごめんなさい」

「…え、あぁ、えーとなんでしたっけ」

千弥子は本気で忘れていた。なんだっけ。もう脳がいろんなことについていくのに精いっぱいなのだ。

「あ、私が幹夫さんをお茶に誘ったときに、なんか…」千弥子は思い出すままに口にした。

舞は、幹夫を見て、許可を促すような表情をし、幹夫は、ゆっくりうなずいた。千弥子には「あのことを話していいか?」「いいよ」という会話だと見て取れた。この2人のアイコンタクト、あうんの呼吸だな…と千弥子は少々の疎外感を抱いた。

幹夫は、舞と千弥子から離れ、他の弔問客のところへ行った。

「私とみきは、一昨年、“セクシュアル・マイノリティ当事者の会”で出会ったの。その頃、私は、恋人を亡くして、どん底で」

「…そう、だったんですか」

「私は、女の体で生まれたけど自分のことを女とも男とも思っていなくて、でも、好きになるのは男性なの。複雑でしょ」

舞は、自虐的な笑顔を見せた。

「私が付き合っていた人はね、女として生まれたけど、心は男の人だった。彼は、ホルモン治療中で、体を男性にしていくお薬を飲んでいたんだけど———あ、ごめん、難しいとか、わかんなかったら言ってね———その影響もあって、精神的にすごく不安定になるときがあって。それで、睡眠薬を大量に飲んでしまって」

千弥子は、「霊安室」の文字を見たときと同じように、目をぎゅっと瞑った。

「舞さん、どれだけ…ショックだったか」

千弥子は、そう言うのが精いっぱいだった。

「うん…つらくて、私も追いかけたいなって毎日思って、おかしくなりそうだった。見かねた友達が“セクシュアル・マイノリティ当事者の会”に誘ってくれて、そこで幹とは出会って」

千弥子は、このあと、舞がどういう話をしようとしているのか読めなくて、怖いような、じれったいような気持ちになっていた。

「幹の心は女だから、私の彼とは逆だけど、優しい雰囲気とか繊細そうな感じが似てて…なんだか、気になっちゃってね。幹は、治療とかはまだ何もしていないけど、それはそれで、やっぱり心配なの。周りからはわかりづらい分、何か変わったことが起きて、幹が傷つくようなことがあったら私、耐えられない。ちょっと神経質になってるのはわかってるんだけど」

千弥子は、なんとなく舞の言いたいことがわかってきた。

つまり、私が幹夫さんを振り回したり、心を傷つけたりするようなことがないように、心配してる。だから、不用意にお茶なんて誘わないでと思って、あのとき…。

「私たちは、決して恋人ではないけれど、ただの友達でもなくて、ただの仕事仲間でもなくて、同志のような関係だと思ってるの。でも、千弥子さんが、幹の友達・・だというんなら、それはすごく嬉しいよ」

千弥子は、幹夫との関係を発展させないよう舞に牽制された気がして、言葉を失った。

私は…幹夫さんを「男」だと思って、恋していた。
だけど、この気持ちは、幹夫さんには迷惑で、受け取ってはもらえないのだ。
少しずつ、この数日で理解しかけていたけど、まだ、きっとわかっていなかった。私にチャンスは本当に、ないんだ———。

翌日の告別式には信二が来て、火葬場にも同行した。
千弥子は、思考も感情もすっかり干上がってしまって、信二と幹夫がどれだけ親しいか、など考える力は残っていなかった。

葬儀は滞りなく執り行われ、幹夫は、しばらくは叔母さんと半同居しながらやっていく、とのことだった。
大切な人を失った者同士、寄り添える叔母さんがいることに、千弥子は感謝した。

帰宅後、千弥子は泥のように眠り、翌日金曜日は、抜け殻のような体で出社した。

疲れがたまっていたので、土日もゆっくりしようと思っていた千弥子だったが、ふと思い立ち、近所の図書館に足を運んだ。

千弥子はセクシュアル・マイノリティに関する本を次々と手に取り、その場で読みふけった。

———私は、あまりにも無知だったんだな。

幹夫のこれまでの人生の苦難を想い、千弥子は泣けて仕方なかった。


気づけば年末に差し掛かり、母親から、今年はいつ帰省するのかというLINEが来た。

今年は…帰らないでおこうか。

なんとなく、そう思った。
幹夫のお母さんの四十九日が過ぎるまでは、東京を離れたくなかった。実際に千弥子が何かすることがあるわけでもないのだが、落ち着かない気がした。

母親には、時期を少しずらして帰る旨のLINEを送った。

四十九日の法要が無事に済んだという連絡が幹夫から来たのは、東京で珍しくたくさん雪が降った日だった。

千弥子さん、お元気ですか。
母のことで、本当にありがとう。
無事、四十九日が済みました。
あのとき、千弥子さんがいてくれて、本当にありがたかった。
もしよかったら、お礼にご飯でもと思って、連絡しました。
土日でも、19時以降なら、会えます。
連絡待ってます。


千弥子は、感情が粘膜のように敏感になってしまっていて、幹夫からのメッセージというだけで、じわっと涙が出てしまうのだった。

幹ちゃん、仕事中に泣いちゃったりしてないかな、と気になっていました。
お礼だなんてとんでもないけど、ご飯一緒に食べられたら嬉しいです。
急だけど、明日土曜日か、来週月曜日は、どうですか。
あ、私、吉祥寺に行きたい気分です。

涙を拭きながら、そう返信すると、

ありがとう。じゃあ、吉祥寺でお店探しとくね。明日19時に駅で。

というメッセージとともに、また、ニコニコした犬の口から「ありがとう」という吹き出しの出ている可愛いスタンプが送られてきた。

土曜日19時に吉祥寺駅で待ち合わせ、その後、幹夫が好きだという沖縄料理屋へ向かった。

幹夫は少し痩せたようだったが、あの日の憔悴しきっていた表情からは一転、すっかり日常に戻り、気丈に暮らしていることが伺えた。

「叔母さんが近くにいてくれて、ホントよかったよね」

「そう、叔母がね、中学生の頃からずっと助けられっぱなし」

「叔母さんにとっても、可愛い姪っ子ちゃんが近くにいて、幸せだと思うよ」

千弥子がそう言うと、幹夫は慌ててハンカチを取り出し、目を押さえた。

「あっ、私、変なこと言ったかな?」

「千弥子さん…千弥ちゃん、って私も呼んでいい?ありがとう、今言ってもらったこと、すごく嬉しい。姪っ子ちゃん、いい響き」

お母さんが亡くなってまもないということもあるのだろうが、こんなささいな言葉で泣いてしまうほど、幹夫は女性としての人生を切望してきたんだろう。千弥子も切なくてたまらなくなる。

幹夫のおすすめのゴーヤチャンプルーや、ソーキそばなどがテーブルに運ばれてきたので、取り分けながら、食べた。

「幹ちゃん、私ね。この前、図書館で、セクシュアル・マイノリティ関連の本を何冊か読んだの。私今まで、まったく知らずに生きてきたことがたくさんあるな、って気づいた」

「…そりゃあ、自分自身が違和感を持たなければ、知りたいって思わないものじゃない」

「あ、うん…確かにそうなのかもしれないけどね、ちょっと、無知の極みだなと思ったのが、性的少数者は、L・G・B・Tって血液型みたいに4分類される、くらいの知識だったってこと」

「あはは、まぁ興味がなければそんなものじゃないの。知ろうとしてくれて、私はそれだけで嬉しいよ。でもわかりづらいよね、LGBが好きになる対象の話で、Tは私たちみたいな、性別違和を感じてる人たち、ってことで、あのワード自体が、もうね」

「読んでて、思ったの。幹ちゃんがセクシュアル・マイノリティだというなら、私は何?セクシュアル・マジョリティなのかな?でも、私はね、幹ちゃんのこと、好きになったの。少数派とか多数派とか、分断することなんかできないよねって」

「…千弥ちゃん。どういうこと」

幹夫の表情がこわばった。

「幹ちゃん、これから私が何を言っても、変なこと言う人ね、って思って聞いてほしい。私も自分で自分がよくわかんないから」

「…うん」

「私はね、幹ちゃんを一目見たときから惹かれてた。抱きたい、って男みたいに思っちゃったの。こんな風に人に対して思ったのは初めてだった」

「………」

「だけど、私は女なの。で、男の人が好き。それについて、何の違和感もなく生きてきた」

「うん」

「なんだけど、ある特定の人を前にしたら、男みたいな衝動が出てくることもあるんだって気づいて、そうしたら、私は、舞さんとかと何が違うのかわからなくなって。それこそグラデーションであって、全然別世界の話ではない気がして」

「うん…」

「だけどね、私、今は幹ちゃんと友達でいたいって思ってるの。なんて言うのかな…異性として好き、同性として好き、みたいな感覚がどうでもよくなってきちゃって、ただ、“好き”って気持ちだけで、一緒にいたいって今はそう思ってて」

「…千弥ちゃん、本当?無理してない?」

「うん、してない。全然」

千弥子は、本当に、無理も我慢もしていなかった。

今はただ、「この人の幸せを、この目で見届けたい」とだけ願っていた。

千弥子は佳奈との会話を思い出していた。「生涯添い遂げたいって、気持ちがわからない」と互いに話したこと。
まさに、この気持ちを指すのではないか、と。

千弥子は、幹夫と、「また会おうね」と言って、吉祥寺駅で別れた。

JRで帰っていると、佳奈から久しぶりの連絡があった。

チャコ―、1ヵ月以上会えてなかったね、元気にしてるー?
そろそろ、飲みに行こうぜ~🍺

p.s.そうそう、超ゆるくだけど、婚活はじめました。笑
今度、話聞いて!

「えっ、佳奈が婚活?!」千弥子はびっくりして声が出てしまうほどだった。

佳奈に何が起きたの。会って話聞かなくちゃ。
千弥子はニヤニヤしながら返信を考えているうちに、ふと気づいた。

「結婚かぁ…私、そんな急がなくてもいいなぁ」

一緒に暮らしたり、結婚したりしなくても、生涯添い遂げることはできる。
なんなら、佳奈にも一生添い遂げますよ、と千弥子は心の中でつぶやいた。

大切な人が、悠々と快適に、この世の中を泳げたらいい。
悲しいこと、つらいことを1つでも取り除けますように。
どんな関係であろうと、私が一生守ってあげるからね。

千弥子は幹夫に対して、そう思っていることに気づいて、温かい気持ちで帰路に就いた。



※この作品はフィクションです。実在する公共交通機関名、商業施設名が出てきますが、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。

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