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嘘も方便? 奇跡は起きる?宗教における真実とウソ

宗教学者・島田裕巳さんと信仰心について考えを巡らせてみると、宗教とともに生きてきた人間の面白さが見えてきました。

 「嘘も方便」と言いますけど、方便という言葉は仏教用語なんです。特に法華経においてこの方便の教えは重要でした。
 法華経は誰でも仏になることができるということを説いた経典で、難しい修行だとか、仏法を勉強するとか、そういうことは必要ない。どんな人でも仏になれるというのが、一番の魅力だったわけです。
 けれども、あまりに単純すぎて、かえって理解が難しいとされ、なかなか信じてもらえない。そこで中国で天台宗を開いた智顗(ちぎ)が、釈迦が残した膨大なお経を説かれた順に並べる作業をするんです。優しい教えから始めて、晩年の法華経を集大成とした。つまり法華経が一番重要であり、法華経よりも前に説いた教えは、実は価値がない、と。では、そこまでのものは? それが「方便」です。

 法華経以前を方便と捉えた智顗の教えを、日本では平安時代に最澄が取り入れました。鎌倉時代になると日蓮がさらにそれを強く打ち出します。法華経に至るまで釈迦は40年間いろいろなところを回って説法をし、ようやく本物の教えを説いたとしたわけです。
 この信仰が日本の社会に広がって、法華経さえ信仰すれば救われるとなっていきます。
 嘘の教えを説くことによって、真実の教えに導いていくというのが方便であって、法華経に至る前の浄土宗も真言宗もダメ、法華経が一番である。法華経の重要性を強調するために、そう説いたわけです。

戒律破りもOK?

 宗教には戒律があります。一神教で有名なのはモーセの十戒。仏教だと五戒です。どの宗教にも共通して、嘘をつくことを戒めていますから、人類社会では普遍的にやってはいけない行為と考えられてきました。となると、方便の教えはそれを犯したことにはならないのでしょうか。
 場合によっては戒めを破ってもいい、という考え方も宗教にはあります。いけないとされてることが、かえっていい、という衝撃的な教えがあるんです。それは嘘だけでなく、殺すことに関しても、そこに価値を見いだす教えが、例えばチベット仏教などにはあるんです。

 戒律に違反することの方が本当の価値がある。戒律なんかに従ってるのはまだ甘い、その先に行くためには、あえて戒律を破らなければならない。そこを超えなきゃいけないという過激な信仰は宗教の中に必ずや生まれてくるんです。それによって本当の教えと、本当じゃない教えの区別を作る。そういうことが繰り返されてきました。
 過激な教えというのは、やはり魅力があって、それを信じる自分だけが正しく特別な存在だと思えてくるのですね。その特別な教えを他のごく少数の人に知らしめて仲間にしていくと、集団ができる。人間は自分だけが正しいと思いたがる生き物なんです。

モーセがユダヤ人を率いてエジプトから脱出する『出エジプト 記』。モーセが杖を振り上げると海が割れ、道が出来た場面 が描かれている。『紅海横断』コジモ・ロッセッリとドメニコ・ギ ルランダイオまたはビアージョ・ディ・アントニオ(15世紀) システィーナ礼拝堂壁画

奇跡、ご利益、正夢

 宗教では、真実か嘘かに関係なく、信じているとそれが本当になることがあります。そもそも教えが嘘か本当か、証拠になるものもないですから。奇跡だとしか思えないことだって起こるわけです。仏教でいうご利益もそう。昔は、夢で見たことは本物であるという感覚も強くありました。
 今みたいに合理主義が進んでくると、神や仏の力とか、夢とかを信じる人は少ないけど、古代中世は、みんなが信じている前提の中で、いろいろなことが起こるわけです。そして、それを嘘だと思わないし、嘘の基準が現代とまるで違います。日本では呪詛(じゅそ)なんて戦後になるまで犯罪とされていました。しかも明治までは殺人罪だったんです。

イエス・キリストの奇跡。船で説教をするイエスが、ペテロに漁を促すと、 それまで一晩中一匹の魚も捕れなかったのにもかかわらず、信じられな いほどの魚がかかった。『奇跡的な大漁』ジェームズ・ティソ(19世紀)ブルックリン美術館蔵

信仰心と合理主義

 世界的にどこでも共通しますけど、信仰心は年齢が上がるほど強く、若い人はほとんど無宗教。でも、若い人が年を取ると、それが変わっていくんです。死が近づくと、やっぱり自分たちだけの力でこの世の中は出来上がってるわけではないと感じるようになるんですね。あとは何かの出来事をきっかけに信仰心が高まったり。例えばトランプさんが銃撃されて生き残ると、奇跡だ、神だ、みたいな感覚が強まりますよね。
 人間って面白くて、何かを信じたいし、奇跡が起こってほしいと思ってるんです。実際に何かが起きたとき、これは奇跡としか思えないってなるわけです。だまされてでも救ってほしいという感覚も強いのかもしれません。真実だけで生きていると、人間関係が壊れちゃうこともありますし。だから嘘も方便ということがどうしても必要で、人間の本質的なところが宗教という現象の中に現れてくる。
 完全に合理主義にはなれないんです。

話:島田裕巳さん(しまだ・ひろみ)
1953年東京都生まれ。76年東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業。84年同大学大学院人文科学研究科博士課程修了(宗教学専攻)。日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。主な著書に『創価学会』『宗教は嘘だらけ』『葬式は、要らない』など多数。


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