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保険の歴史と横浜

横浜商工会議所からみる横浜の港

港町、横浜。
幕末に簡素だった漁村が日本の近代を押し進め、港湾都市の「横浜」へと発展する中、保険もまた共に発展してきました。
今回は、保険の歴史にこの「横浜」がどのように関わってきたかをご紹介します。


1.開港前の日本における保険制度

保険の歴史をご紹介します

横浜が開港する以前、日本には西洋的な保険制度は存在しませんでした。
しかし、古くは相互扶助制度(農業の共済制度)や江戸時代には「五人組制度」など、共同で相互扶助を行う仕組みがあったようです。原始的な一種の保険制度とも言えるかもしれません。
江戸時代の鎖国制度以前(16世紀~17世紀)には、ポルトガル等との交易において「抛金(なげかね)」という現在の海上保険のような制度がありましたが、鎖国制度により貿易の制限とともに保険制度の普及も停滞せざるを得ませんでした。
その後、本格的な保険制度が始まるのは横浜の開港以降(1859年)のことです。

2.開港と外国商人の役割

1859年の横浜の開港により、横浜には多くの外国商人が集まりました。彼らは本国で発達した保険制度を持ち込み、自らの貿易活動を保護するために保険を活用しました。
このように横浜における外国商人のリスク管理の必要性から始まり、その後、日本商人や市民に広がっていきます。

そもそも簡素な漁村であった横浜を開港の場所として選定したのも、江戸幕府が当時の東海道(街道)付近ではあまりにも危険と、あえて遠ざけたとのことです。諸外国政府はあまりも簡素が漁村のため猛反対していたそうですが、そのような中で先に外国商人たちがどんどんその「漁村」に進出していくことで既成事実が出来上がってしまい、諸外国政府もその「漁村」の開港に承諾したそうです。

今の横浜の発展も、保険業界の発展も、横浜に進出してきた外国商人たちの行動力の賜物なのかもしれません。

3.日本における保険会社の誕生

横浜における保険の始まりは、日本の保険業界の始まりとも密接にかかわっています。
歴史を時系列に見てみましょう。
(下記の日本損害保険協会の『明治150年関連特集』をご参照ください)

江戸城の無血開城からわずか10年で初の国産保険会社が誕生しています。
政府の主導も大きいと考えますが、民間の商人たちのバイタリティーのすごさにも驚かされます。
福沢諭吉は、「災難請合」という表現で保険を紹介しています。
明治以降の保険年表によれば、「危険請合」「難請合」の文言も見られます。
『ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする』
当時の流行り言葉の通り、保険制度も発展・発達への入り口の扉が開かれたのもこの時期です。
諸外国との貿易の活発化とともに、保険制度も大きく発展していく第一歩がこの開港と大きく関わってきました。

【日本の歴史と保険関連の年表】

  • 1853年:ペリーが浦賀へ来航

  • 1854年:日米和親条約の締結(神奈川条約)

  • 1858年:日米修交通商条約の締結(鎖国の終わり)

  • 1859年:横浜など開港

  • 1860年:桜田門外の変

  • 1861年:インペリアル火災保険会社が外国商社向けに火災保険の引き受けを開始

  • 1867年:大政奉還/ 福沢諭吉:「近代保険制度の紹介(西洋旅案内)」

  • 1868年:戊辰戦争/江戸城無血開城/明治元年

  • 1869年:神奈川税関の保税倉庫の保管貨物の日本政府による引き受け 

外国保険会社のみが引き受けていた火災保険を日本政府自らが引き受け、政府主導の保険制度育成が始まる。

  • 1872年:銀座大火

  • 1879年:東京海上保険(現:東京海上日動火災)の誕生 

日本初の国産保険会社の誕生・貨物海上保険の認可。
銀行、製造業、商社、有力問屋、港湾都市等への委託(いまの代理店制度のようなものでしょうか)により保険制度がこのあと成長。

  • 1881年:明治生命の誕生 

横浜にあった火災・海上・生命等の保険業を営む外国会社は72社(その内火災保険の扱い会社は30社)もあり、外国保険会社の進出が激しくなってきたことが伺える。

  • 1887年:東京火災保険の誕生・火災保険認可

日本初の火災保険会社の誕生

  • 1888年:安田火災(現:損害保険ジャパン)/朝日生命の誕生

  • 1891年:横浜の大火                       

横浜に密集する多くの家屋が被害にあった大火災。この火災を契機に火災保険の普及が加速。


4.保険制度の発達

日本への近代的な保険制度の普及は比較的遅かったものの、その後は驚異的な発展を遂げ、世界的にも大きくかつ洗練された保険市場へと成長してきました。
歴史的に見て、海上保険からはじまり、火災保険等を通じて広く保険制度が日本社会に浸透してきた結果、今では「生命保険」「自動車保険」「火災保険」「傷害保険」などが大きく普及し、個人や企業のリスク管理手段として広く「保険」が利用されるようになりました。
日本の近代化には「保険」は欠かせない制度であり、今もなおその役割は非常に大きく社会に影響を与えています。

これからの保険業界は、AIの普及も含めデジタルが大きく関わった新しい保険業界へと大きく変貌を遂げる時期なのかもしれません。
先人の活躍を知り、先人の思いを感じながら、保険業界が素晴らしい方向に発展することを願っています。

横浜の開港と保険制度の発展か!

5.保険会社の社名

保険会社は合併連衡が繰り返され、今ではメガ4社とか言われていますが、もともとは保険会社も多くありました。
自分が保険業界に入った1986年当時の保険会社名は下記の通りです。
【保険会社の社名】
・東京海上火災保険会社
・安田火災海上保険株式会社
・大正海上火災保険株式会社
・住友海上火災保険株式会社
・日本火災海上保険株式会社
・日動火災保険株式会社
・千代田火災海上保険株式会社
・興亜火災海上保険株式会社
・大東京火災海上保険株式会社
・日産火災海上保険株式会社
・日新火災海上保険株式会社
・大成火災海上保険株式会社
・同和火災海上保険株式会社


保険会社名をよく見ると、「~海上火災保険」「~火災海上保険」とあります。
東京海上や大正海上、住友海上はもともと"海上保険”主力だった会社であり(戦前で言う旧財閥系の会社ですね)、それ以外は、"火災保険”を主力商品としてきた会社です。安田火災は旧財閥系の会社ですが、"火災保険”を主力としてスタートしているので"火災海上保険”の表記になっているようです。

保険会社名を見るだけでもその歴史や成り立ちの一部が表れていますので、このような観点で企業を見ることで、保険会社の違う一面が見れるかもしれません。
しかしながら、現在では、下記の各会社はメガ4社+1社となっています。次代の流れを感じます。

6.最後に

横浜で生まれ育った身として、およそ150年前にこの横浜の地で頑張っていた先人たちの思いやその姿を強く感じます。
今は観光地化していますが、横浜の赤レンガ倉庫は、人や物の海外への起点であった「旧横浜港のプラットホーム」や「横浜税関跡」、波止場の「象の鼻遺構」など、歴史を肌で感じる場所です。
保険の歴史もこの横浜にあり、その横浜で保険業界に寄り添った仕事ができることに幸せを感じています。

旧横浜港駅跡
赤レンガ倉庫

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