その目的地は本当に行きたい場所なの?
私は何がしたいんだろう?
いつかどこかに
「私の命をかけてやることはこれだ!!」
と言えるようなものがあるんじゃないかと、ずっと探していました。と言っても積極的に探していたわけではなく、「いつか王子様が」的に、いつかそんなものがやってくるんじゃないかと待っていました。
だけど人生半分以上経っても出会えず。
すぐ飽きて興味がコロコロ変わる自分を「そんなんじゃダメだ」と否定してきましたが、
「見つからなくたっていいじゃないか!それでも楽しく生きてもいいじゃないか!」
そう考えを変えた方が、しあわせに生きられそうです。
*
ひとつを極める人もいれば、そうじゃない人もいる。私はそうじゃない人だった、それだけの事。だから劣っている訳でも、ダメな訳でもないじゃん。
そうじゃなきゃダメだと決めつけていたのは自分。
私は何にも極めてないし、やり遂げてもいないけど、全くダメじゃない。
この世界に感動して喜ぶことができる。
悲しむことも、怒ることも、笑うこともできる。
笑って過ごすことができるなんて、なんてしあわせなことだろう。
(怒ることもとっても大事と思っている)
**
私はずっと、人の役に立たなければ、人の為になる事をしなければ、世の中のためになる事をしなければと思っていました。
なんでだろう?
そうなったら、どうなるの?
必要とされて、大事にされて、尊重される
必要とされて、大事にされて、尊重されたかったんだ。
それだけ?
辛い思いをしている人を見ていられない
何かをしたくなってしまう
なんでだろう?
見ているのが苦しいだけでは?
その人が、それを選ぶ自由だってあるんだよ。
手を差し伸べるいい人でいたいの?
私はキリスト教徒ではないけれど、教会がある幼稚園に通っていて、聖書の言葉や讃美歌を歌って過ごしていました。そんな事も何か影響しているんだろうか?
どんな人も愛されるべき、どんな人も愛すべき、どんな人も許すべき、十字架に貼り付けられても。なーんて、幼稚園児の頭で思い込んでしまったんだろうか?
自分が何かできるとでも思っていたんだろうか。思い上がりも甚だしいな。
(キリスト教徒の方、全くバカにしてません。不快に感じたらごめんなさい、あくまで私が変に思い込んでいるのではという話です。)
(イエスやマリアの愛と比べられていたなら、私の親もたまったもんじゃないな)
えーっと 何の話でしたっけ、
私の頭の中はいつもどんどん枝葉が分かれていって、中々本筋が進みません。
つまり
役に立たなきゃと必死に生きてきたけど、自分がすり減り辛くなるだけだった。
優しい世界を望みながら、闘う様に生きてきた。
やりたいならそれでいい。
でも私はそうしたいの?
私は、闘うことなく
穏やかに笑っていたい
世界に感動しながら、楽しんでいたい。
そこを目的地にするなら
どう過ごす?
まずは嫌な事はできる限りやめて、闘わずに離れて
(私は優しくないのはダメだ!と自分の正義を振りかざしていただけなのかも、だから闘うになっちゃったんだ)
好きなものを増やして、好きなものに注目して
あとはよくわかんないけど
ネコバスみたいに、目的地をそこにしたら連れて行ってくれるかもしれない。
また人任せに、と思いつつ
役に立たなくても、何かを成し遂げなくても
楽しくしあわせに生きてもいいんじゃない?
を自分に言いきかせる為に
あれこれ書いてみました。
私はヒーローになりたい子どもと一緒だったのかもなあ
と、書いてみて思いました。
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