恋とはするものではなく落ちるものだ
2年程恋愛をお休みしてしまうと「本当にまずいな」と時々感じる。
2年前、ほとほと疲れてしまって、「それなら思い切ってお休みしてしまえ」とわたしの中での恋愛の優先順位を思いっきり下げた。下げたと言うより、除外したと言ってもいい。
恋愛は結構パワーが必要だと思う。相手ありきのことだから、気を回したり使ったり心をオープンにしたり受け止めたり。自分だけではないからとてもパワーがいる。
仕事上、メンバーケアやメンバー育成で人の将来に向き合うことをしているから、特にそう思うような気もする。
ただそのパワーは、相手のことが好きだとしんどいとか疲れるとかパワーを使うとか思わないのだ。自然とできる。その自然とできる、振る舞える相手がどういう相手なのか、そんな人はこの世にいるのか、と当たっては砕けを繰り返した。そして、2年前は諦めてしまったのだ。
我慢して当たっていた時もある。
でもダメなものはダメで、2年間静かに一人で暮らしてきた。母が2年前のタイミングで家出をしてきたので、一人暮らしが1ヶ月半程居候ありになったのも一つの理由だったりするけれど。
コロナ禍で、世の中のカップルは大変だなぁなんて最初の頃は他人事のようにぼーっと考えていた。でも日に日に長引く自粛生活。趣味もランニングがあったから良かったものの、それ以外は全て自粛。
食べ歩きもUber eatsの中で終わる。今まで習慣でなかった家飲みが習慣になる。仕事も在宅勤務。サッカー観戦もなし。
…こういう時に恋人がいたら違うのかな…
ふとこういう思いが湧き上がったのがきっかけだった。一度こういう気持ちが出てきてしまうともう止まらない。淋しさが急に押し寄せてくるのだ。今まで一人でいることに幸せを噛み締めるほどだったのに。
コロナ禍で生活が一変するって、こういうことも指すよね、と思う。
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同じように思っている同じような境遇の人と、奇跡的に出会って恋に落ちた。文字通り、8年ぶりぐらいに「恋に落ち」た。
知り合ったきっかけはマッチングアプリで、正直メッセージ交換のときはそこまでピンと来ていたわけではない。
向こうからいいねを送ってきてくれて、プロフィールを見る限り無視するようなポイントがなかったからだ。メッセージ交換の間もお互いの普段がわかるようなやりとりのみだ。盛り上がるとかもなく、おそらくお互い「あぁこういう人なのか」と理解できるくらいのやりとり。
だから「一回お茶するか飯でも行きますか」と言われた時も「そうですね、行きましょか」というノリだった。多分これ以上は会ってみないとなんともだなとお互い感じたタイミングも同じだったのだと思う。いいねをもらって1週間くらいだった。
さすがに恋愛を休んでいても、恋に落ちる瞬間というのだけは覚えている。言葉では表せない。昔、江國香織の小説「東京タワー」の映画版で冒頭にてこんな台詞がある。
何故男と女が引かれあうのか、考えたことある?
たぶん、空気で引かれあうんだと思う。
性格とか容姿とかの前に持つ空気があるの。
その人の周りにはなっている空気。そういう動物的なものを私は信じてるの。
言葉で説明できないものが、確かにあるわ。
まさにこれだ。実際に会った瞬間、その周りにある空気に吸い寄せられる感じがする。たぶんこの人に何をされても赦してしまいそうなそういう空気。
彼との待ち合わせで、初めてその姿を見た時がそうだった。事前にメッセージのやりとりがあったから、何となくどんな人かは予測はできていたし、少なくとも「条件的」観点では何も不服はなかった。でも過去にそういう人たちはたくさんいた。結果付き合っていない。そう考えると、もう言葉で説明できないこの「動物的」なものしか違いがないのだ。
彼もそう感じたのかどうかはわからない。ただ少なくともわたしに対して違和感を感じることなく、側にいてくれている事実をただ受け止めるだけだ。