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聖人君子ではない

先日のもやもやした件について、少し書いておきます。

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でももやもやした結果、わたし自身がタイトルのような宣言をしたいんだなというのが、落ち着いて考えたら明らかになった、というのが正しいかもしれません。

なんなら、自分に甘い割に他人にも厳しい、そういう結構ダメな方の人間だと思ってます。
noteを書き始めた理由も含めて、客観的に読むと「実に自分に甘くて他人に厳しいな、わたし」と我ながら思うことも多々あります。

ただ、厳しいというのは少し意味が違って、妥協しないではなく、自分に合うか合わないかを分類して合わないほうはスルーする、という感じです。責めたりはしません。

こういう性格の場合、聖人君子な人からするとたぶん「言っていることが理解できない」ってなるんだと思います。

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とっても若いときのわたしも聖人君子ばりに自分にも厳しく他人にも厳しいと思ってました。
ただ、年齢を重ねるにつれ、それがとてつもなくしんどいこともわかってきました。

常に正義や正論を振りかざして頑なにそこに閉じこもろうとしても、ただそれらだけではなんともならないとか、妥協ではなく受容する大切さとかがないと、自分で自分の首を絞めてしまうということ。
(とはいえ、刑法に触れるようなことは当然だめですけど。)

そこに閉じこもって耐えることについても、自分を犠牲にしてまで耐えられるかどうかによります。犠牲とも思わない何かがあれば、それは「犠牲」ですらなく「我慢」でもなく、かつ「受容」でもないんです。おそらく「事象」くらいのものでしょう。だから耐える耐えないの話にもならない。

耐えるという言葉が出てしまうというのはもう「犠牲」とか「我慢」という域です。そしてそれは、そこに何もないから「犠牲」と思ってしまい、それはそれでしかなく一度そう思うと変わることもない。

結果、自己犠牲をはらってまで他人に貢献できるほど聖人君子ではないと自覚するのです。

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わたしは結構ヒドい女です。ワガママだし自分勝手だし。だからこじらせ女子。

なのに、聖人君子と思われていた過去を急に思い出させる投稿を発見して、もやもやしたのでした。

ぼやっとした投稿にしたから聞きたい人は直接わたしに聞いてください(笑)

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あっち
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