震災12年目
今日は東日本大震災から12年が経過した日だ。
私は宮城県仙台市出身である。
当時私は小学六年生で、一週間後に卒業式を控えていた。
教室で授業を受け、「もう少しで今日も終わりだな」と思っている時、地震がきた。
余談だが、私たち宮城県民は「宮城県沖地震」が数十年に一度やってくると教えられて育ってきている。そして当時は、ちょうど前回の宮城県沖地震から数十年空いている時期だった。みんな物心ついた時から、生きている間に大きな地震が来ると言われていた。だから大きな揺れが来た瞬間、みんな「ついに来た」と思ったらしい。
先生が「机の下に入ってください」と妙に落ち着いた声で言って、みんな机の下に入った。先生は2年目の新人教師で、自分は机の下に入らずに黒板にしがみついて立っていた。先生が修学旅行で買ってきて飾ってあったお守りの札が、黒板の上から落ちてきた。それを見て私は「これはやばい」と思った。先生の上の蛍光灯が割れないか心配だった。揺れの途中で電気が消えた。私たちは机の下で怯えている以外にどうしようもできない。後に中学の先生がこの時のことを、「学校のグラウンドが波打っていた」と語った。「その後、大きな白い鳥が窓ガラスにぶつかってきて、ガラスが割れた」とも。
揺れは数分続いて終わった。だがそこから10分以上、私たちは机の下から出ることを許されなかった。「気持ちが悪い」と言った生徒もいたのだが、先生は許さなかった。今思えばすごく当然というか、正しい判断だと思う。だって、誰も状況を把握できていなかったのだ。
10分以上待って、とりあえず学校で待機し、保護者が迎えにくるのを待つことになった。当然だが、この時点で携帯の基地局もやられており、みんな音信不通の状態である。だが小学校と中学校が避難所になっていたし、このような時、まず向かう先は学校の子供のところだろうという判断があったのだと思う。その判断の通り、誰も連絡をしていないのに、続々と保護者が迎えにきた。みんな顔を真っ青にして、口数少なく帰っていった。私の親は最後から四番目くらいに迎えにきてくれた。その時、両親はちょうど弟の卒園式かなんかで幼稚園に行っていた。体育館で保護者の携帯が一斉に緊急地震速報を受信して、とても怖かったと言っていた。
両親は地震が収まるとすぐに私を迎えに来ようとしたのだが、道路がものすごいことになっていて、10キロもない道のりにえらい時間がかかったらしい。車に乗って家まで帰る途中、信号機は全部真っ暗で、ところどころ信号機は倒れていて、道路は割れていた。田舎だったからか、地震が起きた直後だったからか、それとも昼間だったからか、私が住んでいた地区は渋滞などもなく、みんなゆっくりと徐行して車を走らせていた。
家は無事だった。だが家の中はぐちゃぐちゃだった。私は帰ってすぐに飼っていた猫を探した。倒れたテレビや棚の下にいるのではないかと心配で仕方なかった。しばらく名前を呼ぶと、地震の揺れで少しだけ開いた押入れの中から出てきた。猫は尻尾がピンと立って、ブルブルと震え、全身の毛が逆立っていた。私が撫でると、「ニャア」と鳴いた。
不思議なことに、その時私は津波のことなど微塵も頭になかった。それは私が海からは遠い、内陸の山間部に住んでいたということももちろんある。
だが私の祖父母は鮎川町という震源にかなり近い港町に住んでいて、私は昔から津波の恐ろしさを教えられていた。にも関わらず、私はすっかり津波のことも祖父母のことも忘れていたのである。
薄情だと思われそうだが、今思えば、それほどショッキングだったのだと思う。少なくとも普通の精神状態ではなかった。不謹慎だが、妙な興奮状態で、いつもより活動的に私はなっていた。部屋をある程度片付け、余震に備え、倒れやすいものは倒したまま隅っこに寄せ、リビングにみんな集合した。猫もずっとそばを離れなかった。
食料は両親が買い出しをしたばかりだったので、少しは保ちそうだった。飲料水もある。だが、トイレが問題だった。緊急時のペットボトルと風呂の残り湯を使って、ある程度は流したが、毎回は流石に流せない。五人家族の便を限界まで溜めて、流すようにした。男勢の尿は庭にした。これは田舎だからできることである。
そのほかは電気が問題だった。三月の東北はまだ寒い。しかも震災の日は夕方から雪まで降ってきた。今思い出すとなぜか泣きそうになる情景なのだが、当時はなぜか普通に「ああ、雪だ」としか思わなかった。だが私たちは別に家がなくなっているわけではない。私たちは厚着をして、毛布を被って、ロウソクを灯した。こういう時のために備えはあるのだなと実感した。私は当時は最先端だったウォークマンでラジオを聞いた。改めていうまでもなく、テレビはつかない。ラジオはどこをつけても地震の話で持ちきりだった。そこで、私は初めてこの地震が宮城だけのものではなく、これまで類を見ないほどに大きな規模のものだと知った。そして、そのラジオで初めて私は津波が来たことを知ったのだ。なんとなく、父と母が深刻そうな顔で話し合っていたのはこのことなのかもしれないと思った。だが情報は錯綜していて、何がどこまで本当なのか確かなものは少なかった。津波と聞いても、それがどれほどのものなのか、どれほどの被害があるのか、全く想像できなかった。
長いのでこれくらいにします。
明日も書きます。読んでいただきありがとうございました。
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