元々の才能
いきなりだが、(いきなりじゃない話なんてないのだが)
結局全部遺伝で決まるのでは?という思いが結構ある。もちろん努力が全て無駄なんだみたいな古典的な考えかたではない。だが事実として、努力なんか関係なしに「元々」できる人がいるのは確かだ。
元々身長が高い人がいる。
元々足が速い人がいる。
元々マッチョの人がいる。
元々頭が良い人がいる。
最近は脳の報酬系の研究も進んできて、
元々努力ができる人なんてのもいるようだ。
もちろんそれは何かを諦めたりする理由にはならないし、人は人である。
また、才能はやっぱり人それぞれで、
足が速くなくても勉強ができたり、身長が低くても足が速い人もいるわけである。
だが私みたいに筋トレしてる人間からしてみれば、やはりそういう元々太れる人との差を顕著に感じるわけで、なんだが腑に落ちないこともある。
だがそんな元々太れる人たちからしたら、私のように細い人間はうらやましかったりもするらしい。
そう考えてみると、私たちが苦しんでるものは「それぞれの才能にあってない生き方」をしているからなのかもしれない。
テレビアニメのPSYCHO-PASSでは、シビュラシステムが「自分の適正」から仕事を選んでくれていた。
そこに個人の意思はなく、それはまさしくディストピアだけれども、考えようによっては「自分の才能」を発揮できる場所がそれぞれに用意されているというわけで、なんだが羨ましい気がする。
ちょっと前に「出生前診断」で生まれてくる子の才能がわかるという話が流行ったこともある。
それで親が望まない才能を持ってる子だったらどうするのか、生まれてくる子をデザインできるのかみたいな議論だったが、あらかじめ適性がわかっている生き方とはどういうものなのだろうか。
うーん。ここまで書いてきたが、やっぱりそのような生き方はとても窮屈で、狭い生き方かもしれない。
例えば小説家の適性を持っている人間がいたとして、じゃあその人が幼い頃から本ばかり読み、小説ばかり書いていたとして、果たして面白い小説が書けるだろうか?
絵ばかり描いてきて、絵以外の社会を知らない人間が、人の心を動かす絵が描けるだろうか?
芸術分野に顕著だが、得てしてそのような実践的行為というものは、「外側からの視点」が活きてくることがある。
なにが役に立つかわからないのだ。
そう言った意味では、才能があろうがなかろうが、色々な経験をして、自分で選び取った道というのが、結局力を一番発揮できる世界なのかもしれない。