割引の形式の違い(経済学および金融工学)

大学での経済学に関する講義ノートに意外な記述を見つけたことをきっかけに本稿を作成した。経済学と金融工学における割引の相違点を詳らかにしていく。


経済学での割引率

経済学においては割引率ないしは割引因子を表現する記号は、分野によって大きく異なる。本稿では筆者に馴染みのある$${ DF ( \cdot ) }$$という表記を行う。これはDiscount Factor(以下DF)を表しており、将来のキャッシュフローを現在価値に"割り引く"際に乗算する数値である。一般に0.9や0.7程度の値が馴染みのある数値である。例えば将来の100万円に対して0.7のDFを乗算することで、現在価値70万円と計算する。これは「将来の100万円」というものを「現在の70万円」に等価に変換しており、これを割り引くと呼んでいる。
一般的なミクロ経済学やマクロ経済学において、DFという言葉は基本的に用いないものと理解している。経済学では割引因子$${ \delta }$$として登場することが多い。そしてなんらかの利率・利回り$${r}$$を用いて、以下のように定義されている例を散見する。一般に「割引率」と呼ばれることもある。経済学においては連続複利ベースとなっている例は多くないため、本稿ではそれに倣う。

$$
\begin{array}{rll}
 \delta &=& \dfrac{1}{1+r}
\end{array}
$$

割引率は年率か?

経済学における各種定義では明示されないことが多いが基本的に年率である・・はずである。そもそも $${r}$$ が後述の金融工学における扱いとは異なり、具体的な商品や契約から構成するのではなく、将来に対する蓋然性や漠然としたリスクを表す一種の概念であることが多い。そのため年率であるかどうか確認できなかったり、確認できずとも特に支障がないこともある。

なお、経済学入門などでよく用いられる例では預金金利のようなものが出てくる。この場合は年率であることが明らかであるが、理論において預金金利やそれに類するものを用いることは、まずないだろう。実際、年以外のなんらかの「期」「回数」等をベースにしていることもある。こういった点や定義式も含めて、経済学全体での統一的な定義はないように思え、分野や文脈ごとに決まっているようだ。この点は金融工学ないしは金融業界における割引率とは大きな相違である。

経済学における割引因子の定義

本稿においてはいずれの事例においても利率・利回り $${r}$$ は年率で表記し、 $${t}$$ は現在を基準とした将来の時点までの期間であり、年ベースで表すことにする。そして $${DF_E (t)}$$ は現在から $${t}$$ 年後のキャッシュフローを割り引く際に乗算すべきDFを表し、以下のように表現される。なお添え字の  $${_E}$$ は経済学におけるDFであることを強調するためだけに付けている。

$$
\begin{array}{rll}
DF_E(t) &=& \left( \dfrac{1}{1+r} \right) ^t \\
&=& \delta ^ t
\end{array}
$$

割引因子の一般化?

上記の定義の場合、割引因子$${ \delta }$$ないしは$${r}$$は何年後であろうと一定であり、表現の幅が限定的である。これを「割引率$${r}$$はフラット」といった表現がされることがある。年数によらず使用する$${r}$$がいつも同じであるからだ。

とあるマクロ経済学における講義ノートにおいて以下のような割引の定義があった。この定義では1年ずつ順番に割引を繰り返す形で $${t}$$ 年後のキャッシュフローを割り引く、と定めていた。ここで1年ごとの割引率を $${r_1 , r_2 , \dots , r_t}$$としている。

$$
\begin{array}{lll}
DF^{ \prime }_E(t) &=& \left( \dfrac{1}{1+r_1} \right)
\times 
\left( \dfrac{1}{1+r_2} \right)
\times \dots
\left( \dfrac{1}{1+r_t} \right) \\
&=&  \displaystyle \prod _{i=1}^{ t }  \dfrac{ 1 }{ 1+r_i }
\end{array}
$$

この定義は先に挙げた定義をより一般化させているといえる。$${r = r_1 =  r_2 = \dots = r_t}$$という特殊な条件のもとでのみ先の定義が成り立っている。この定義ではそれ以外のケースも表現できるようになっている。

さて、このとき各$${r_i}$$はどのような意味を持つ数字なのか見ていく。$${r_1}$$は現在から1年後までに対応する割引率ということで、これは従来の文脈と同様に理解される。
一方で$${r_2}$$はどうだろうか。当該定義にあたって「順番に割り引いていく」ことを前提にしていることから、$${r_2}$$は「1年後から見て次の1年間を割り引くための割引率」として理解される。同様に$${r_3}$$は「2年後から見て次の1年間を割り引くための割引率」となる。これは金融工学などにおける「フォワードレート」と類似する概念であるはずである。
これは預金金利の例でいうと、3年満期の定期預金金利とは異なるものである。3年満期の定期預金金利とは現在~3年後までの期間に適用される金利であって、現在からみて2年後~3年後に間だけに適用するために誂えられた金利ではないからだ。すなわち3年満期の定期預金金利はフォワードレートではない。
同じ3年後を満期にする金利だからといって同一視してはならなず、これらは厳密に区別しなければならない。

筆者はマクロ経済学については不勉強なため、フォワードレート的な概念のもとに厳密に$${r_i}$$を定義しているのか判別ができない。なお講義ノートでは具体的な$${r_i}$$の定義については記述がなく、手元のテキスト等でも具体的な定義が記載されたものがなかった。
なんらかの実証研究の際に$${r_i}$$を計算・想定する際に、国債利回りなどの金融市場の各種データを基にしている場合、利用方法や見方に誤解が起きていないかを懸念している。
この点については別稿で数値例比較をする。もし金利系のマーケットデータを「ナイーブ」に扱ってしまうと、悲惨な結果がもたらされることを示す。

金融工学での割引率

以下の$${ r_t }$$ は、経済学における$${ r,  r_i }$$と役割が近い。一方で、それの意味するところは異なる点に注意を要する。
金融工学における$${ r_t }$$は、期間$${ t }$$に対応するゼロレート(Zero Rate)と呼ばれる。これはクーポン支払いがなく償還満期に元本だけが発生する「割引債」という債券の実行利回りとして定義される。満期3年/元本100円の割引債が現在95円の値がついている例を考える。これは市場は「現在の95円と3年後の100円は等価である」と評価している、と考えることができる。このときゼロレート$${ r_3 }$$は以下の式を満たす。ゼロレートは常に年率で表記されることに留意する。

$$
\begin{array}{rll}
95 \times ( 1+ r_3 )^3 &=& 100 \\
95 &=& 100 \times \left( \dfrac{1}{1+r_3 } \right) ^3  = 100 \times DF_Q (3) \\
DF_Q (3) &=& \left( \dfrac{1}{1+r_3 } \right) ^3 = \dfrac{95}{100}
\end{array}
$$

割引債は満期という特定のタイミングでのみ100円というキャッシュフローが発生する。ここで重要なのは一般化された割引因子として挙げた例とは異なっていることに注意する。すなわち3年後のキャッシュフローを割り引くにあたり、$${ r_1 }$$と$${ r_2 }$$の出番はない。1年後と順番に割り引くことはせず、3年後に対応するゼロレート$${ r_3 }$$を用いて一気に割り引く。なお一気に割り引くといっても$${ r_3 }$$についても常に年率で表記するため、3乗することで3年分の割引としていることに留意する。そして満期5年の割引債があればそれに対応したゼロレート$${ r_5 }$$が存在し、同様にして各期間に対応したゼロレートがいくつも存在する。
これらの点は経済学徒(や一部アクチュアリー)が金融工学やその実務を学ぶ際に、混乱する箇所のひとつであると筆者は感じた。

期間$${ t }$$年について$${ DF_Q (t) }$$を一般的に表現すると、以下のとおりとなる。なお添え字の  $${_Q}$$ は金融工学におけるDFであることを強調するためだけに付けている。

$$
DF_Q(t) =  \left(  \dfrac{1}{1+r_t }  \right) ^t
$$

ゼロレートの答えはマーケットデータにある

先の割引債の例を見て分かるとおり、金融工学のDFはマーケットデータという事実から逆算して求められる。言ってみればボトムアップ的、帰納的、アポステリオリのようなイメージだろうか。債券やスワップなどの金融商品が市場で○○円で取引されたということは、$${ DF_Q (t)  }$$ないしは$${ r_t }$$が××であるはずだ、という形で逆算していく。実務上でも一定のマーケットデータを基に、逆算やキャリブレーションする形で各期間・年限に対応した大量のゼロレート達を逆算している。この大量のゼロレートの集まりのことをイールドカーブと呼んでいる。なお実務では例示した割引債は殆ど用いられず金利スワップ等を用いるが、本稿では深堀しない。

金融工学的な業界においては、世界各国どのマーケットにおいてもこのような定義や前提が共有されている点は興味深い。論文やマニュアル、要件定義書でも、数式や単語を見れば共通認識が持てるというのは、よく考えると大変ありがたいことである。

(余談)

金融実務への数学を応用するものとしてクオンツとならんで挙げられるアクチュアリーだが、割引に関して業界標準が大きく異なっている点が興味深い。特に生保数理および年金数理の分野においては、割引率の$${ r }$$(アクチュアリー的には予定利率$${ i }$$等)はフラットとされている。つまり最初にあげた $${DF_E (t)}$$形式を用いている。
これは保険用語や企業年金用語としての予定利率 $${i}$$がフラットである点に起因する。保険や企業年金の負債面自体には市場性がない点にも遠因があるのかもしれない。一方で、退職給付会計における割引率 $${i}$$については、現在の数理実務基準においてはマーケットにおける一定の社債イールドカーブで計算したり、それを代表する $${i}$$を逆算したものを用いている。

また、DFこと Discount Factor は読んで字のごとく割引因子であるが、意味するところや使われ方が異なっている。そのため同じ単語でありながら、英語読みと日本語訳で別の意味となっている点は興味深い。一方で、字面は一致しているため、混乱をきたす場面があるかもしれない。


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