宿題は出さなければいけないか?

僕は、父が随分アメリカナイズされた人間だったせいか、かなり思考が欧米人に近い気がする。
個人主義というか、権利と交渉という考え方をベースにしている。
別の言い方をすれば「立場」という概念にほとんど興味がない。

先日卒塾生が遊びに来てくれた。
転職の報告だという。
そこでちょっとした昔話になった。

その生徒が
「昔、先生(僕のこと)に言われて、夏休みの宿題を変えてくれって高校の職員室に言いに行ったことあったじゃないですか?レベルが自分には難しすぎて合ってないから、代わりにこっちをやるからそれでいいか?って交渉してこいって。私あれかなり衝撃だったんですよ」
みたいなことを言っていた。

僕はどうやら記憶を捏造していたようで、確かに高校の先生に交渉して課題を変えてもらったことは覚えていたが、生徒が自分の意志で勝手にやったんだと思っていた。

「いやいや、私がそんなことを自分で思いつくわけじゃないじゃないですか。っていうか当時の私の価値観の中にそんな選択肢ないですから。明らかに先生の差し金でしたよ。」

って言われた。
一応断っておくとこの生徒はけっこう我儘というか、自分が進みたいと思った道はどんな障害物があっても破壊して進もうとするタイプなので
(いや、全然やりかねへん性格やったけどな)
って内心思ったけど怒られそうだから黙っておいた。

でも確かに僕はそういう考え方をするというか、宿題の交渉は僕にとって自然なことという感覚だし、でも一般的には生徒たちはそういう発想にはならなそうだとも思うので、彼女の言う通り僕が提案したのかもしれない。

多くの生徒たちは「立場」という考え方をする。
学校の先生は宿題を指示する「立場」
自分たち生徒はそれを受け入れ実行するという「立場」
立場がすべてを決めている。

こういう考え方をするなら「交渉」なんて発想にそもそもならないのもわかる。
いくら自分に合っていなくても、いくら自分にとって理不尽なものであっても、自分はそれを受け入れる「立場」なのだと。
(場合によっては「理不尽に耐えるための社会訓練」みたいな無理やりな理屈をこじつけたりして)

でも、僕は権利を重視する考え方だ。
自分の24時間をどう過ごすかを決める権利は、当然その人自身が持っている。
なんぴとたりともそれを侵せない。
この権利は道徳的・教育的理由づけに勝ると思っている。
要は
「あなたの将来に役に立つからやりなさい」
なんて誰にも言えないということだ。
提案というニュアンスなら言っていいけど、それは強制であってはいけないと思っている。
指導者として、大人として言いたい・言うべき・言いたくなる気持ちはわかるけど、指導者より大人より前に「人間同士」という前提を僕は重んじている。

相手の年齢や立場が自分より低くてもその権利を侵せないと思っているし、
相手の年齢や立場が自分より高くても自分の権利を侵させるつもりはない。

それでも相手に何かをしてほしいとき、相手の時間を自分の希望通りに塗りつぶしたいとき、必要になるのが交渉だ。

こういう考え方に照らして言えば、宿題は決して絶対的なものではない。

教師が持つ「成績を決定する権利」に基づいて、これを提出した者には加点を与え、提出しなかったものは与えない、という教師から持ち掛けた「交渉」だ。

実際に僕は高校の時には教師に
「提出物は出さない。成績は下げてくれていい。欠点にならない程度にこちらでテストの点数を調整する」
と宣言していた。

これは多分「問題児」である(笑)
よくある(日本的な)文脈で言えばきっと
「指示」と「反抗」
と解釈されるのだと思う。

でも、そうじゃない。

僕は今でもこれは間違った主張だとは思っていない。

「提出物は出さない。でも成績は下げるな」
は我儘だ。教師がもつ「成績を決定する権利」を侵している。

「宿題を出すな」
も同様だ。相手から交渉を持ちかけることを禁止するのは明らかにこちらの権利を逸脱している。

当時の僕が主張していたのは
「提出物を出すか出さないかを決めるのはこちらの権利だ」
「提出物の出すか出さないかによって成績を決めるのはそちらの権利だ」
よって
「『提出物を出さない。成績は下げていい』
はどちらの権利も侵されていない。単に交渉の決裂だ。」
ということ。

何ならわざわざ宣言することで相手の立場を立てているつもりだった。

教師なんだから、宿題を出さない生徒に対して(形式的には)指導をしなければならないだろう。
若い先生もいたから、上の立場の人から圧力がかかるかもしれない。
だから宣言した。

「あなたに非はない。あなたは使命を果たした。これはあくまでこちらの判断で、こちらの責任だ」
ということを明示したかった。
優しさではない。
どうせこちらは出す気はないのだから、「教師の立場」なんてものに付き合わされて何度も呼び出されるのが面倒だったからだ。

僕の価値観では
「交渉」ー「決裂」
という構図のつもりだったけど、もちろん当時は
「指示」ー「反抗」
だと解釈された。

非常に面倒だったし、理解できなかった。

冒頭の卒塾生に戻ると、だから夏休みの宿題が自分に合っていないと思ったら交渉するなんて当然やっていいことだ。
もちろんそれを認めるかどうかは教師の権利だ。

でも、そもそも教師も休みの間に学力を高めてほしくて宿題を課しているのだから、全くレベルが合っていなくて学力向上が見込めない宿題よりも生産性が高いことはわかってくれるだろう。

あとは他の生徒との公平性の問題だが、代替案の宿題に要する労力が元々の課題を「教師が想定した学力の生徒」が実行する労力とあまり変わらないものなら、公平性も担保されると思う。
(もちろん、全く同じ課題ではないと公平ではないという考え方もある。教師がそちらの考え方なら決裂だろう)

だから、交渉が成立するか決裂するかは双方の考え方の問題だとしても、交渉を持ちかけること自体は当然やっていいはずだ。
(そして「決裂」は決して「敵対」ではない)

もしも教師や学校がこれを「反抗」とか「敵対」とみなすなら、大いに問題だと思う。

実今の社会では自分の権利を主張したり、交渉することができずに苦しむ人が多い。
下請けは元受けに交渉できず
部下は上司に交渉できず
若年者は年長者に交渉できない。

それで社会としての経済的生産性が上がっているならまだ理解もできるが、GDPも賃金もしっかり横ばいである。

もちろん交渉すればすべて上手くいくわけではない。
会社や上司が狂っていて、交渉=反抗(敵対)とみなされ立場が悪くなってしまう職場もあると思う。

でも、周りの社長とか高い役職の人にインタビューしたりすると
「自分はむしろ交渉に来て欲しい。来てくれれば話は聞くし、条件が呑めないならその理由をちゃんと説明できる。何も言わずに勝手に不満を溜められるのが一番怖い」
とも言ってたりする。

もしも学校や塾などの教育機関が
「生徒からの交渉」を反抗や敵対とみなすなら、それは生徒の将来に役立つどころか大いに足を引っ張っていると思う。

で、何でこんなことになってしまうかというと、多分怖いからだ。

生徒が勉強しなくなるのが怖い
生徒が自分のいうことを聞かなくなるのが怖い
自分の仕事上の責任を果たせなくなるのが怖い
顧客が離れるのが怖い

塾という仕事をしていると、確かにそんな気持ちもわかる。

でも、高校生の僕はこう言っている

「そんなのそっちの都合だろ。そんなことでこっちの権利を侵害するな」

僕が今の塾を
「強制しない塾」
「指示をしない塾」
にしているのはそのためだ。

提案はする。でも指示も強制もしない。

生徒には交渉を覚えて欲しい。

自分の権利や希望をしっかり主張し、相手の主張にもしっかり耳を傾け、コミュニケーションの中で一緒に最善を作り上げていく工程を覚えて欲しい。

僕はなぜ勉強するのが良いと思っているのか、なぜこのテキストが良いと思っているのか、なぜこの方法が良いと思っているのか、なぜこの量が必要だと思っているのか、できるだけ誠実に話す。
「中学生や高校生には見えない、実感できないだろうけど、社会にはこういう側面もあるんだ」
という話もする。
同時に
「君は勉強を拒否する権利もある。やり方を受け入れない権利もある。やり方をアレンジする自由もある。」
という話もする。
「あなたの良い将来を願っているということ」
「でもあなたの権利を侵害するつもりはないこと」
がちゃんと伝われば、基本的に生徒も誠実に交渉のテーブルについてくれる。

子供を隷属させたい親や指導者なんてきっといない。
でも子供は立場的にも言語能力的にも大人に対して圧倒的に不利だ。
だから大人が不安や恐怖に負けて子供の権利を侵害する(または子供に権利があることをあえて伝えない)のはフェアじゃないと思う。

だから、いくら手間がかかっても、いくら間接的でも
「無理やりでも子供に勉強させてほしい」
「先生が指示を出し、生徒がそれに従うという関係性の中で成績を上げて欲しい」という顧客層を捨ててでも
僕はコミュニケーション(交渉)を大事にしたい。

成績を上げることにも学力をつけることにも価値はあると思う。
でもそれより重要なのは、その過程だ。
学力をつける過程のなかで、何を身につけたか、どういう文化・価値観・行動様式の中で勉強をしたのか。

学歴社会と言われ、高学歴な人たちが社会的に優位な立場にたっても20年間経済成長できず、ここまで日本が貧しくなってしまったことを、学校や塾という観点からも真摯に受け止めるべきだと思う。

<追記>
生徒の話を聞いていると、最近は
「夏休みの宿題は、自分で内容を考えてノート〇〇ページ分自由に勉強してくること」
みたいな宿題が増えているようだ。
こういう話を聞くと、嬉しくなる。
もちろんこの課題の出し方にもメリット・デメリットがある。決して最善とは思わない。
でも僕みたいに自由な立場で商売をしている人間と違って、組織の中で従来の価値観と違った態度を取ること、新しい試みをすることはリスキーなはずだ。
それを試みるほど勇気と主体性がある指導者は、きっと良い薫陶を生徒に授けてくれるのだと思う。
けっこう批判されることが多い教育業界だけど、実はそんなに捨てたもんじゃないよってことも、現場にいるとわかる。

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