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短編小説「グッドラック」

ガソリンの準備はできている。
ライターは、さっきコンビニで買った。
包丁は、三徳と刺身用が一本ずつ。念のため、ハサミとカミソリも家から持ってきた。どっちも、糊やら髭やらがこびりついて、刃はギトギトだ。だが柔らかいものを切るくらい、造作もないだろう。俺の首の皮さえ切れれば、それでいいのだ。

駅の改札を通る時は、さすがに緊張した。駅員に気づかれたらご破算だ。ホームでのんきに電車を待つ、サラリーマンやおばさん、女子高生たちも、みんな自分のスマホの画面に釘付けになっている。俺のことなど目もくれやしない。この後家に帰って寝るだけ、そうすれば今日一日が滞りなく暮れていく。そんなふうに高をくくっているのだろう。

もしも、このまますんなり電車に乗れたなら、車両の中でガソリンを浴びてやる。会社の同僚も、上司も、惰性で友達だったやつらも、主治医も、カウンセラーも、コンビニの店員ですら、自分さえよければそれでいいという人間ばかりだった。

自分さえよければ。もちろん、俺もだ。俺も、同じになってやる。誰かのために生きようとか、喜ぶ顔が見たいとか、そういう考えを持つことがあんなに苦しいものだとは思わなかった。それが正しい人倫なのだと、盲信しきっていた。
もうこの先、他人に遠慮したりしない。我慢したり、わずらわされたりする必要はない。そうきっぱり決めてしまうと、自然と笑いがこみあげてくるものだった。清々しい気分だ。腹の底から呵々大笑してやりたい。俺の笑い声は、きっとこの場にいる誰にも届かないだろう。耳目そのものが、俺を感知できないようにできているらしい。電車のゴンゴンという唸り声や、くぐもっているのに通って聞こえる女の声が、俺の呼吸すら最初からなかったことにしてくれるだろう。
道連れなんて必要ないけど、一人くらい誘ってもいいかな?

女の声が、ぼんやりと響いてきた。俺を目覚めさせるための女神の声だ。そろそろ電車がホームに入ってくるらしい。
俺も行かなければ。ガソリンが、包丁が、ズタボロのリュックの中で、かすかに鳴った。ギトギトの自分たちを早く解き放ってくれと、俺の背中でしきりにうずいている。
出征する戦士のように、奮然としてベンチを立つ。 快速列車のドアが一斉に開いて、一人、二人と急ぎ足で降りてくる。

乗客の流れが、ふいに止まった。
大衆の肩越しに、淡い色の帽子が、乗降口でうつむいて立ちふさがっているのが見えた。小柄な人が、自分の体がすっぽり入りそうなくらいのキャリーバッグを、どうにかホームに下ろそうとしている。もう片方のか細い手は、乗降口の手すりを、力いっぱいつかんでいる。じりじりとキャリーバッグを引きずり、ステップを降りようとしていた。

その小柄な人を、誰かが後ろから突き飛ばした。
いや、後続の客が、押しのけるようにして降りたのだろう。そのはずみで、ホームに飛び込む格好になったその人を、みんな後ずさりして見下ろしている。
堰を切ったように、車両からエスカレーターへ向かう人たちがあふれだした。転んで倒れ伏すその人を、誰もが尻目にして、避けて、跨いで、車両に急ぎ足で乗り込む。薄汚れたスニーカーが、落ちていた老眼鏡を、軽々と蹴っとばした。

まるで沸騰するように、視界が揺れ出した。目が痛くて、涙が浮かんでくる。
見下ろすと、俺の手指には、小さく血がついていた。俺の血だった。他の誰かのじゃない。 ぴりっとした痛みが、指先を突いた。割れた眼鏡を手に膝をついた俺のそばで、老いた女性の頭が、コンクリートからもたげられたのが見えた。ガンガン響く轟音。せめぎ合う女の優美な声。すべて世は事もなしと言わんばかりの、笛の音とブザー。俺は両手で耳をふさぎたくなるくらい、自ら声を張り上げた。

自分でも何に対して、誰に対してがなり立てているのか、わからなかった。シートに座っているやつら、吊り革に手を突っ込んでいるやつら、みんな車窓からこっちを見てくる。迷惑そうに顔をしかめ、怯えたような目を向けてくる。
むしろ俺の方が、おまえたちに怯えているよ。怖いよ。何してくるか予想つかないよ。
よくそんなふうに、手をこまねいて腰を下ろしていられるな? 人が無様に転ぶのを見て、喜んでいるのか? 大丈夫か? 転んだばあちゃんに大丈夫かと聞くこともできないなんて大丈夫か? 急いでいるっていうのは免罪符なのか? それがおまえたちの正しさなのか?
果たして、人の言葉になっているのかはわからない。がなり立てているうちに、あっと言う間に喉が嗄れ、ひっくひっくと嗚咽のような、情けない声しか絞りだせなくなった。

ジリジリ鳴るブザーの後、乗降口は幕を引くように閉まった。
俺たちを残して。傷ついてうずくまる俺たちを残して。浜辺を離れる船のように、不気味なくらいおもむろにホームを離れていく。

俺はすぐさま、電車の後部に追いすがろうとした。だけど、俺の腕を、かよわく痩せた手が引きつかんでいる。立ち上がろうとするズボンの膝は、擦り切れていた。
「いいのよ。いいの。こういうもんよ」
ばあちゃんは、どうにかその場に、腰を落ち着けた。苦悩の痕跡のような顔のシワに、わずかに血がついていた。俺が握りしめている老眼鏡に、さっと手を伸ばし、てきぱきと掛ける。

「私、こんな暮らしからは、オサラバしてやるの。なんにも言わないでおいとまするのが、一番利口よ。そういう行いこそ、誰もが恐れるもんよ」
少し低い声だが、ばあちゃんの声ははっきりと聴きとれた。倒れたキャリーバッグの取っ手を杖の代わりにして、四股を踏むように立ち上がる。

「ありがとうね、お兄さん。グッドラック」
帽子のつばのせいで、顔はよく見えなかったが、見得を切るように振り向いた。
ひら、と手を挙げて、歩き去っていく剽悍な足下に、割れたレンズの破片がキラリと爆ぜた。

ちっぽけな指の傷が、無性に痛くなってきた。ちょっと切れただけなのに、とても堪えられない。みぞおちに力を込めることもできず、汗と涙が噴き出してくる。きっとこれは、ガソリンを燃やすよりも暑く、包丁を突き立てるよりも痛い。

ホームの先に、昨日の空が見える。整然と並んだ蛍光灯とは比べようもないほど、明るく晴れた空が待ち構えている。

今に追いかけてやるぞ。夜の闇をけしかけて、むさぼり尽くしてやる。

この先どうなるかは、俺の知ったこっちゃない。

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