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パンを買うお金で物語を買ったら

私が二十歳くらいの頃、身の回りの友人ったちは、誰も小説の価値を知らなかったように思う。
ライトノベルや純文学を書いたことのある人は、ちらほらいた。
だが、たいていは「副業にしたくて書いてます」という人や、作品を読んでみても理解できないのに、相手が文学賞を取ったとわかった途端に、その作品を褒める人などだった。
高い志を持っていたり、純粋に楽しもうと望んだりして書いているは、およそ見当たらなかった。お金や名誉のために書いている人ばかり目についた。

今は、小説を気軽に発表できるプラットフォームが、いくつもネットに設えられている。
と言っても、私はそれらを利用したことがない。私の好きな傾向の文芸でないという理由がネックになっている。

本当は世の中の誰も、物語を欲していないのではと思うことも、たまにある。
noteを眺めていると、そんなことはないと気づく。
しかし、文章を書く職業に就きたかった、若かりし頃の自分を取り巻く環境が、あまり良くなかったせいか、どうしても暗い気持ちに持っていかれることがある。

そんな愚痴を、ゲーム制作の相棒にこぼした時。
相棒はさらっと、こう言った。
「物語は現実を良くするためにあるべきです」

ゲームに没頭しすぎるあまり、その人が現実をおろそかにするような状況を生み出すのは、本末転倒。
現実(リアル)は物語(フィクション)よりも、あくまで優位にあるべきだ。

そういう話をしていて、不意に昔観た映画を思い出した。
「アラビアン・ナイト」だ。調べたところ、1999年にアメリカで製作された、スティーヴ・バロン監督の作品だ。
180分もあるのに、最後まで面白さが尽きなかった記憶がある。

簡単にあらすじを説明すると、バグダッドの王様が、妻を弟に奪われた上、その妻を殺してしまい、すっかり精神的に病んでしまった。
そこへ、ある女性が、王の新しい妻として迎えられる。
その女性がとても聡明で、愛するバグダッド王をどうにか立ち直らせたいと思い立ち、夜ごと王に、物語を語って聞かせる。
「アラジンと魔法のランプ」など、不思議な物語を聞かせては、「続きはまた明日」と言って、興味を引く。
そうして時間をかけて、王に真実の愛を証明していく。

この映画の序盤で、バグダッド王を立ち直らせたいと思い立った女性が、お忍びで町へ出かけるシーンがある。
町では、老いた男性が語り部として、人々に物語を聞かせている。

女性が彼を訪ね、どういった物語を王に聞かせたら良いのか、教えを乞う。
その時、男性はこう答えた。
「人々はパンよりも物語を求める。人生の謎に答えてくれるから」

あの金言を聞いた時の、当時の私は、雷に打たれたようだった。
このセリフは、さまざまな受け取り方ができると思うのだが、あの当時の私は、物語には時として、食べ物よりも価値がなくてはならないと感じたものだった。
それからしばらく、そのセリフが、物語を作らんとする若かりし頃の自分の原動力となっていた。

すっかり忘れていた、あの時の情熱。
今、弱気になった時に思い出された。

今一度、信じてみよう。
人の現実を良い方向へ変えてくれる、物語のポテンシャルを。
現代での立ち位置を。


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